松岡正剛『フラジャイルな闘い 日本の行方』(春秋社、2011年)

フラジャイルな闘い 日本の行方 (連塾 方法日本)

そもそも「遊」という漢字一文字の雑誌名からしてまったくなかったので、だったらそういう「ない」ところに「ある」が出現することによって、何かが「なる」ようにしてみたい。そういうふうに決意しました。かくて私は、ほぼ一〇年にわたって「遊」を舞台に、ほぼ連日連夜、いろいろな編集実験やデザイン実験をします。


(原文は2014年執筆)
ナイ・アル・ナル。
「ない」ところに「ある」が出現することによって、何かが「なる」……STAP細胞がこうだったら良かったが。「ない」と「ある」を二項対立と考えるひとは多い。男で「ない」なら女で「ある」、東で「ある」なら西で「ない」、パヨクで「ない」ならネトウヨで「ある」といった具合。だけれども、日本人には「ないけどある・あるけどない」という矛盾を当然のように受けとめる心ばえがある。
 
藤原定家が『新古今和歌集』で詠んだ「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」という歌がある。花(=桜)も紅葉もないから一層秋の寂しさが身に沁みるという意味だ。このとき定家の目に映っているものは桜も紅葉も散らした枯木だけではない。枯れ木のうえにイリュージョンとしての桜が花開き、紅葉が色の鮮やかさを競っている。その華やかな幻とうらぶれた現実、両者の虚実の皮膜、「ないけどある・あるけどない」がぎりぎりまで近接していればこそ秋の寂しさは痛いまでに我が身に迫ってくる。祭りが終わったばかりの神社やパーティーがはねたばかりの会場がもたらす寂寥感を想像してもらえばよい。そうした寂しさも虚実の被膜が隔てられるほどにやがて薄らぐ。虚とは終わった祭りやはねたパーティーのことであり、実とは今現在のことである。

「ないけどある・あるけどない」の境地は、「色即是空・空即是色」などの言葉にも表現されているし、流水を小石で表現した枯山水にも見て取れるだろう。日本人にとって「ない」は必ずしも無いだけを意味せず、また「ある」も必ずしも在るだけを意味しない。「ない」と「ある」は二項対立しない。
 
もうひとつ残った「なる」は変化を指し示した言葉だ。変化とは連続的なもの。厳密にはここからが「なる」でこれ以前は「ならない」と見定めるのが難しい。風邪は気付いたときには「なって」いるものだし、空腹も気付いたときには「なって」いるものだ。ここまでが満腹で、ここからが空腹だと言うひとを見かけたことはない。
 
世界のありようとは連続する変化であり、本来、厳密な理解を受け付けない。それを強引に狭い範囲へとセグメントする。そのような仮構的な世界のなかで理解のプロットを構築したものが科学である。
 
ところがハイゼンベルク不確定性原理は、極小の世界について観測不能であることを証明している。観測不能なものは制御できない。根幹のところでひとが望むようには制御できないものが世界だと暴いた。原発の制御も「できる」というお約束のうえで稼働しているにすぎない。観測できないほど原発周辺の放射線量があがってしまえば、手をこまねいて見ているしかなかったことをわたしたちは先の地震で経験している。
 
ハクスリー『素晴らしい新世界』やオーウェル『一九八四年』は、制御できないはずの世界をあくまでも制御・管理していったその先にあるもの、すなわちディストピアを描いたみせた。ディストピアの作り方などはきわめて簡単で、ひとにひとたることを放棄させ、モノとして扱えばよい。ただ、恐ろしいかな、世界の潮流はその背に人びとを乗せ、モノとして扱う方向へ突き進んでいる。
 
分かりやすいものだけ求めるのが子供、分かりにくいものも併せて丸呑みするのが大人だと仮に定義したとき、先の「STAP細胞」事件に対する世論の反応は、まさに幼児性のあらわれだった。白黒はっきりさせろ、動機を特定せよ、明文化せよ、定量的に示せ、責任の所在を明らかにせよ……。
 
これらの「要求」は、女性研究者の道義的責任や技術的な未熟さに対する非難や、研究プロセスに対する疑問の表明とはやや違う。大衆の要求を一言で言い換えるなら「安心させて」ということにほかならない。「安心」の尺度は相対的なものであり、だれかが一律に定められるものではない。だがそれを他人の解釈に頼ろうとする。個々人が世界と折り合いをつけていくことのなかにこそひとの自由があるはずなのに、それをだれかに委ねてしまったらあとに残るものは隷属だけだ。分かりにくいもの(=世界)はあくまで拒否するという子供のごとき態度の表明、かてて加えて世界と折り合いをつけていくための理性の放棄。
 
芥川龍之介羅生門』の主人公が生きるためのエゴに踏み込めず震えているとき、老婆の言い草が彼を翻心させる。女の死体から髪の毛を抜き集める老婆を奪衣婆と見なすなら、彼女は、迷妄時代の桎梏、前時代的な自由を束縛するものの象徴でもあろう。理性的現代人を表象していたはずの主人公は、生き抜くためには死体をも利用するという老婆の理屈の前にさっさと理性を放棄すると、今度は主人公自身が奪衣婆と化し、老婆から着物を奪って闇のなかへ逃げ去る。地獄の鬼の前に理性が敗北するのだ。これこそが人間社会のありようだと喝破した芥川がこの世に見切りをつけたのもいたし方ない気がする。
 
分かりやすいものだけ求める者を子供、分かりにくいものも併せて丸呑みするのが大人だと定義した。ただ、現今の社会を見ていると、分かりやすいものへすぐさま飛びつくのが大人で、大人が作り出したカオスを唯々諾々と受け入れざるを得ないのが子供であるようにも思う。
 
「ない」ものを見極めることが先決だ。「ない」ものの正体が判明すれば、その先の「ある」と「なる」もおのずから見えてくる。「ない」と「ある」に血みどろの死闘をさせ、どちらかを勝者にするような思考なりロジックなりを廃棄すべき時代にわたしたちは差しかかっている。

 

フラジャイルな闘い 日本の行方 (連塾 方法日本)

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