谷崎潤一郎『文章讀本』改版(中公文庫、1996年)

文章読本 (中公文庫)

国語の長所短所と云うものは、かくの如くその国民性に深い根ざしを置いているのでありますから、国民性を変えないで、国語だけを改良しようとしても無理であります。

 

(原文は2014年執筆)
ソグ・ミガク・ヒキシメル。
世の中には文殊菩薩のごとき読書家がいる。およそ読んでいないジャンルはなく、読む量も一人一殺……ではなく、一日一冊、ことによると一日数冊という猛者がいる。
 
そのようなひとたちのレベルには到底及ぶべくもないが、それでもある程度まとまった分量の文章に触れていると、文章が書き手の人格・個性を露わにしていると気付くようになる。
 
論旨の組み立て方、言葉の選び方、比喩・引用のセンス、一文の長さ、レトリックの多寡、知識を盛り込む量、地の文と会話文の比率、感嘆詞の有無……などなど。こうしたものの総合から間違いなくそのひとの「本性」が見えてくる。
 
講演や演説を大の苦手にしていても文章では饒舌なひとがいる。これなどはもちろん道具立てによって「本性」が変化しているのではなく、根はおしゃべりなんだろうと思う。ただ、話すのと書くのとどちらが当人にとって勝手が良いかの違いだけである。

 
わたしはツイッターが苦手で、以前にアカウントを作ったこともあるがすぐに削除してしまった。確かに、書きたいことを一四〇字の枠に収めるのは、文章を書くときの無駄を削ぐ訓練にはなる。
 
しかし一方で、一四〇字というスペースと呼ぶにはあまりにささやかな庭のなかに我が身を嵌め込んでいるうちに、身体のサイズまでそれに適応してしまう危惧がある。一四〇字に近づくと、思考が自然にクロージングしてしまう癖がつくことへの懸念だ。
 
道具がそれを使うひとの脳に影響を及ぼすことは脳科学が証明している。普段から文章を書き慣れていないひとほど一四〇字の枠の影響を被り、言いたいことをきちんと伝えることよりも分量への気遣いから雑に結論をまとめたり、ニュアンスで物事を発信したりするようになるのではないか。あるいは、大喜利のように頓知とオチさえつければ何かを語ったかのような錯覚。
 
量を気にせずポストすればいいではないかという意見もあろうが、関西で市長をつとめた某弁護士のようにいきり立ち、ツイートを連投する姿にわたしは品を感じない。そういえば、マシンガンのごとく、ガトリングガンのごとく、一四〇字の投稿を速射するその手法は、記者会見における不貞腐れた彼の物言いそのものだな、と書いていて思った。
 
翻って、わたしの文章を読んだひとは、ここからわたしのどのような「本性」を引き出すものか。考えると、本当に怖い。

 

文章読本 (中公文庫)

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