米澤穂信『さよなら妖精』(創元推理文庫、2006年)

さよなら妖精 (創元推理文庫)

(原文は2015年執筆)
バルカン半島の代名詞といえば「ヨーロッパの火薬庫」。
 
なぜ「火薬庫」かをきちんと説明するには『坂の上の雲』全8巻分くらいのボリュームが必要となろう。兎にも角にもめちゃくちゃ複雑なのだ。
 
荒っぽく要約するならば、民族と宗教と国境が入り乱れている国々を周辺大国の都合で引っ掻き回したから、といえよう。
 
こんな前振りにも関わらず、今日紹介したいのは歴史の本ではない。
ヨーロッパの火薬庫からやってきた少女が印象的なミステリー。
しかも、青春ミステリー。
 
米澤穂信氏の『さよなら妖精』だ。

 
雨が降る下校途中、主人公は雨宿りをするひとりの少女に出会う。
「深い青のジャケット、桃色のパンツ、暖色系のストライプのシャツに、赤いニットキャップ」というおよそ日本人らしくないファッションに身を包む少女。
 
彼女はユーゴスラビア人で、名前をマーヤという。
 
マーヤは、ホームステイ先としてあてにしていた知人が亡くなっていることを知り、途方に暮れていた。
主人公の守屋は彼女に同級生の家が営む旅館を紹介する。ただしマーヤもそれほどお金を持ち合わせておらず、住み込みという条件になる。
守屋のささいな親切心が忘れたくても忘れられない彼女との思い出の始まりになったのだった。
 
守屋や彼の友人たちとともに、弓道を見学したり神社を訪れたりして日本文化を学ぶマーヤ。発見があるごとに思索をめぐらし、ときに彼らの眼を覗き込みながら質問をする。

「哲学的意味がありますか?」

ちょっと大袈裟に聞こえるこの言葉は彼女の生真面目さをあらわしたチャームポイントでもある。しかし物語を読み終え、「哲学」なる言葉に秘められた彼女の真意を知ったとき、わたしたちは胸が締めつけられるはずだ。
 
大人と少女が混じったマーヤの不思議な魅力と青春の苦さ。
本格推理とは違った味わいを得られる「ボーイ・ミーツ・ガール」ミステリー。
 
ユーゴスラビアバルカン半島とほぼほぼ重なる。
つまり「ヨーロッパの火薬庫」とは、ユーゴスラビアそのものを指すといえよう。
今はもう存在しない。民族的にも、宗教的にもばらばらだった6つの国がそれぞれに独立を果たし、国家としては解体してしまったからだ。

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この物語は、ユーゴが解体の混乱を迎えつつある時期を背景にしている。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争やコソボ紛争という言葉を知っているひとも多いと思うが、それらの事件が起きたのはこの物語のもう少しあと。
 
余談になるが、ユーゴスラビアにはチトーという終身大統領がいた。彼は、錯綜する民族意識のバランスを取り、国をひとつにまとめあげていた。しかし彼の死とともにユーゴの解体は加速する。チトーの歴史的評価には毀誉褒貶があるが、果たして同じ綱渡りの真似がほかの政治家にできたかどうか。のちの大混乱と殺戮を考慮したとき、破滅への傾斜を抑えつけた彼はやはりひとりの偉人であったと考えざるを得ない。
 
マーヤが日本に滞在したのは3ヶ月に過ぎない。
不穏なユーゴスラビアへ帰国する日は刻一刻と近づいてくる。
彼女はなぜそこまで積極的に海外の文化を学ぶのか。
そして『さよなら妖精』のタイトルがもつ意味とは。
ラストまで読んだとき、この物語は否が応でもあなたのユーゴスラビアへの興味をかきたてることだろう。
 
ところで、守屋の友人のひとりに大刀洗という少女がいる。
実は彼女が新作の主人公となって帰ってくる。
その名も『E85.2(仮)』、こちらも今から楽しみだ。 
さよなら妖精』は、もともと「古典部」シリーズのために考えられた物語であり、なおかつマーヤが千反田えるの原型だ。片や「哲学的意味がありますか」、片や「わたし気になります」。ふたりの前向きな探究心に共通点を見いだせるだろう。
 
奉太郎とえるのさらなる活躍も米澤先生には期待したいところ。
まさに〈期待〉とは、自分に「古典部」シリーズの物語が書けない、思いつけない諦めから出る言葉なのだから。

 

さよなら妖精 (創元推理文庫)

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