高山宏『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』(東京創元社、2002年)

殺す・集める・読む―推理小説特殊講義 (創元ライブラリ)

(原文は2014年執筆)

しかしながら、ぼくが本当に皆さんに知っていただきたいのは、学問や文化にだれることなく、素朴な疑問を持って、それを解決する「方法」そのものを模索する、永遠に新しく、楽しい作業です。この二十年、幸運に恵まれてそういう作業ができたつもりの、ひとつの作業報告として本書を送りたいと思います。何かを興味津々の「謎」や「暗号」として感じとる感受性、それを「解」くためにいろいろな知識を動員し、他人にはできないつなげ方で情報をつなげることで解決する。つまらぬことのみ多い今般の世の中、残されている数少ない真の知的悦楽、これ、と思います(拍手)

コロス・アツメル・ヨム。
例えば、『フランダースの犬』である。
 
両親に先立たれ、仕事を奪われ、放火を疑われ、つかの間前途に希望を夢見ることがあっても、最期は聖母マリアの絵の前にうち伏すことになる。日本のテレビドラマ『おしん』のごとく次から次へと主人公を襲う艱難辛苦。
 
運命に翻弄され、嘲弄される主人公という着想は、18世紀後半から19世紀前半にわたってヨーロッパを席捲したロマン主義の台頭がバックグラウンドにあってこそのもの。フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーロマン主義大河小説『レ・ミゼラブル』を上梓したのは1862年。『フランダースの犬』の発表はそれからちょうど10年後にあたる1872年のことである。

 
ジャン・バルジャンは、50キロになんなんとする道を歩いてきたにも関わらず、だれからも休息の場所を与えられず絶望する。同様に、ネロもまたホーボーケンとアントワープの往復16キロを歩くことで日々のたつきを立てるも、それは蔑みの対象にこそなれ、決して世間へのエントリーにはなりえなかった。
 
〈歩くこと〉が苦行とアナクロニズムのシンボルとされたのは、18世紀後半に産業革命で発明された蒸気機関と、1825年に輸送の概念を根底から覆した世界初の商用鉄道(ストックトンダーリントン間)が英国にあらわれたことを以って理解するとよい。圧倒的な動力による大量輸送とヒト・モノのリキダイズという現実のまえに、少年と犬が健気に細々とミルクを運ぶ『昨日の世界(ディ・ヴェルト・フォン・ゲシュターン)』は蹂躙される。
 
ネロがミルクを運んだアントワープに鉄道が開通するのは、英国から遅れること約20年後の19世紀半ば1843年のこと。1815年から1833年のフランスを舞台に活躍したジャン・バルジャンと19世紀後半のフランドルに生きたネロは共に産業革命の裏面に生きた「哀れなひとびと」の象徴であり、かつ同じ血脈に連なる者なのである。
 
話は飛ぶが、サンタクロースがトナカイの引く橇に乗るイメージは比較的新しいものである。1822年、アメリカの神学者クレメント・クラーク・ムーアが娘に聞かせるために書きおろした『聖ニコラスの訪問』のなかに、史上初とも見なされるサンタクロースとトナカイ8頭立ての橇が登場する(諸説あり)。ひとが急速に主体的労働を奪われ、機械の「介護者」へとその地位を引き下げられんとするときに、せめて童話のなかだけでもひとと動物が協業した懐かしき姿をとどめおきたい目論見がムーアにあったやも知れない。
 
サンタクロースの名前がセント=ニコラス、すなわち聖ニコラスに由来していることは、上記作品のタイトルにも示されているほか、ニワカキリシタンな日本人ならだれもが一度くらいは耳にしたことがあろう雑学。その聖ニコラスの愛称、すなわちニックネームがネロである。
 
作者ウィーダは「無実の罪に苦しむひとを解き放つ聖人」、すなわち聖ニコラスの愛称をもって、放火の濡れ衣に苦しむことになる少年の名前とした。1822年にアメリカのムーアによって編み出された聖ニコラスとトナカイのイメージが半世紀後の英語圏に広く流布し、ウィーダにネロとパトラッシュの連想をもたらしたと考えてもあながち強引ではあるまい。
 
ここに少年の道連れであるパトラッシュが少年の庇護者たる「父」として登場する。パトラッシュの名前を英語で表記するならばPatrickやPatricia。直接は「patrician(貴族)」に由来するが、さらにさかのぼると「父」を語源にもつ。「padre(神父)」「patriot(愛国者)」などはすべて「父」から派生した言葉の仲間だ。
 
一家の働き手としての父が、迫り来たる蒸気と機械の怪物に実存的価値を呑み込まれようとするとき、ウィーダは、父・パトラッシュとともに芸術に救済を求めるネロの姿を以って、以後父なき時代に生きざるを得ないわれわれに時代のエピタフを示したのである。

 

殺す・集める・読む―推理小説特殊講義 (創元ライブラリ)

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