米澤穂信『クドリャフカの順番』(角川文庫、2008年)

クドリャフカの順番 (角川文庫) 

(原文は2015年執筆)
文化祭で頒布する文集、文化祭で上映される映画とモチーフをつないできた本シリーズ。今まで遠くにしか見えてこなかった神山高校文化祭、通称「カンヤ祭」が本作でいよいよ始まる。だが、文化祭に向けて、古典部メンバーの胸中を暗く満たすのは、摩耶花の手違いから抱えることになった文集「氷菓」の大量在庫。これを売り捌かないと、古典部は大赤字。千反田、折木、福部、伊原、四者四様の思惑を抱きながら、カンヤ祭前日の夜は更けていく。
 
文化祭開催当日。頭を悩ます彼らをよそに、カンヤ祭では奇妙な事件がもちあがる。参加団体から盗まれる品々と現場に残された犯行告知のカード。事件の解決に便乗し、文集を売り切ろうと目論む部員たちとその謎解きを引き受けることになった折木。文集の販路拡大に奔走する千反田、古典部知名度アップに頭脳を発揮する福部、誤発注の責任を人一倍感じている伊原、文集完売のラストアンカーを務める羽目になった折木。シリーズ第三弾『クドリャフカの順番』はかくして開幕する。
 
本作は、主要人物四者の視点から物語が描かれるのが特徴。文化祭の大きな喧騒のなか、めいめいが自分にできることを探し、奔走する。とはいうものの、そのなかで奉太郎だけは文集の売り子としてひたすら待ちの姿勢。省エネ主義者の彼らしいといえば彼らしい。でも、一冊でも多く売るために慣れない笑みを浮かべるところなど、本人曰く、やっぱりお祭りの空気にあてられているのかもしれない。
 
慣れないといえば、千反田がお願いごとをするために相手の気を引こうとしたり、里志が奉太郎の代わりに事件の解決に打って出ようとしたり、摩耶花がマンガのことで上級生に噛み付いたり。これまでにあらわれてこなかった登場人物たちの隠された一面をかいま見られるのも本作の読みどころ。前作で奉太郎が味わった青春の苦さが、今回は全員に用意されている。青春を楽しく感じられるのは未来から振り返ったときだけ。渦中にある人びとにそんな余裕はない。
 
当初の予定では「古典部」シリーズは本巻がラストだった。ひとまず3巻セットを前提とした解釈を述べると、シリーズに共通するモチーフは「不在者による告発」。真意・真相を伝えたいのに、そのメッセージを受け取ってくれるひとはだれもいない。しかも関係者たちの思惑によって真意・真相は引っ掻き回され、改変される。当事者の思ってもみない方向へどんどん拡散していく。
 
それを掘り返し、考え得るかぎりの正しいかたちで、わたしたちの前に届けてくれるのが古典部のメンバー。なぜ奉太郎や千反田が古典部に在籍するかも、これで分かるだろう。彼らは過去に埋没し、あらゆる装飾・虚飾を上書きされてしまった「声」、すなわち「古典」を解釈し、今に真実を物語る語り部たちなのだ。
 
本作のタイトルにある「クドリャフカ」とは、ソ連のロケットで宇宙に送り出された犬の名前である。以下は、里志と奉太郎の会話だ。

クドリャフカっていうと、ロケットに乗せられて地球をぐるぐるまわった犬だったね。酸素が切れるまで、眼下の星に帰れると信じてた」
「そうだったのか?」
 犬がなにを信じていたか、わかるやつもいないだろうが。

そうなのだ。奉太郎が言うように宇宙に打ち上げられ死んでいった犬がなにを信じていたかなんてだれにも分かるはずがない。だからこそ、彼女(クドリャフカは雌犬)の気持ちを代弁する語り部が必要となる。そうしなければ、彼女の存在や思いは宇宙の虚空に打ち捨てられたままになってしまうからだ。
 
氷菓』における千反田の伯父。
愚者のエンドロール』における本郷真由。
 
彼らが本当はなにを訴えたかったのか、その真実を知るひとはいない。そうであればこそ、彼らのかそけき声の残響を聞き取り、今この場へ復元し物語る者として、古典部のメンバーたちが主人公の座を与えられたわけだ。
 
どれだけ叫び声をあげようとも、周囲に言葉が伝わらない残酷さ、虚しさ、もどかしさ。内容が切実であればあるほど、なぜかそれは人びとの耳を素通りしていく。そうした〈クドリャフカ〉な瞬間はだれのもとにも訪れる。言葉は不自由なのだ。次はわたしの〈順番〉であろうか。それともあなたの<順番>であろうか。世界から切り離され、冷たい宇宙に漂うしかなかったひとに救済の手を差し伸べられるのは、登場する〈順番〉を未来に得た人びとだけなのだ。
 
これが『クドリャフカの順番』のタイトルに込められた真意だ。本作における<クドリャフカ>とは果たして一体だれなのか?
 
このあともシリーズは続くが、一応、シリーズファイナルとなる『クドリャフカの順番』をみなさんもぜひ楽しんでほしい。

 

クドリャフカの順番 (角川文庫)

クドリャフカの順番 (角川文庫)