ショウペンハウエル『読書について 他二篇』(岩波文庫、1983年)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

(原文は2015年執筆)
哲学者なんて、身体も動かさず、頭のなかだけでうじうじものを考える、なまっちろい、よく言えばデリケート、わるく言えばナイーブなひとだと、考えている時期があった。
 
しかしショウペンハウエル『読書について』を読んだとき、こんな激しいひともいるのか、とものの見方を改めた。よほど自信があるのか、語尾のほとんどが言い切り、断定。読んでいて、「なるほど!」「そうか!」「うははーっ!」と圧倒されっぱなし。
 
早速だが、表紙にも印刷された有名な言葉から紹介しよう。

 

読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費す勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。

『読書について』の本であるはずなのに、のっけから大いなる皮肉とともに読書を否定。でも、本や新聞の内容を受け売りで話すひとのことなんかを想像すればわかりやすい。いきなり変なことを口走るなあと思って週刊誌をチェックするとまんま同じことが書いてある。あ、うちの父親のこと。

 

数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識の場合も事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。

現代のようにインターネットで情報がすぐ入手できる場合、その数を競ってもしようがない。集めた情報をいかに体系的に組み立て、自分なりの考え方を生み出すか。これを「編集」という。「これからは編集の時代だ」と言うひとが身の回りに増えた。

 

主観的関心が力をふるうのは我々の個人的な問題に限られ、だれでもそのような問題には当面する。しかし客観的関心は、思索を呼吸のように自然に行なうことができるほど天分に恵まれた頭脳に特有のものである。この種の人はごくまれである。ほとんどの学者がめったに豊かな思索の例を示さないのもそのためである。

学者にも、必要以上にお金儲けがしたい、有名になりたいタイプがいる。この手のひとは、大事件が起きるとテレビにわんさかあらわれ、ときに御用学者だと揶揄される。要するに、特定のグループや組織のために利益誘導的な発言をするひとのことだ。そうした世渡りを離れ、学問のために学問することができるか。これが重要である。

 

このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。重圧を加え続けると発条(ばね)は弾力を失う。つまり自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安全確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである。

最初から3ページにして、もはやこの調子。相当凹む。ばねの弾力を失わせているのは読書でなく、ショウペンハウエル自身ではないのか。
 
ここでわたしが脳の研究からちょっとコメントしよう。
 
脳は、起きているときはもちろんのこと、眠っているときにも活動をやめない。睡眠中は主に頭の中身の棚卸しを行っている。新たに獲得した情報をすでにもっている情報とさまざまに突き合わせてみて、要不要の判断をくだす。そうした試行錯誤を経て、有用であるとしたものは引き続き保存しておくし、無用であると判断したものは消去してしまう。
 
こうした脳の自律的な活動の結果、夢を見るのだというひともいる。意味のわかる夢もあれば、意味のさっぱりわからない夢もあるのは、新規情報と既知情報の結合がランダムに行われているせいだ。
 
脳のスクリーニング機能を有効活用するには、寝る前に一定量の情報を頭のなかに叩き込んでおく必要があろう。すると今度は情報の質が問われる。ゴシップのような情報ばかり頭に詰め込んでいれば、スクリーニングしたところで残るものはゴシップでしかない。
 
だから良書を読むことが大事になるし、暗記という行為の意味が増す。必要な知識は都度つどウィキればいいと頭のなかを空っぽにしておくと、アイディアや天啓はひとつも生まれてこない。脳は眠っているときにこそアイディアの種を仕込んでいるからだ。
 
閑話休題
 
ここからはわたしの解説をつけず、ショウペンハウエルの言葉をピックアップしてみよう。

もともとただ自分のいだく基本的思想にのみ心理と命が宿る。

つまり自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。  

読書で生涯をすごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。

凡庸な書籍哲学者と自ら思索する者との関係は、歴史研究家と目撃者とのそれに等しい。

読書と同じように単なる経験も思索の補いにはなりえない。単なる経験と思索の関係は、食べることと消化し同化することの関係に等しい。経験がもし、いろいろなことを発見して人知を促進したのは自分だけであると大言壮語するならば、肉体を維持しているのは自分だけの仕事であると口が高言しようとするようなものである。 

 世間普通の人たちはむずかしい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり権威ある言葉を引用したがる。彼らは自分の理解力や洞察力のかわりに他人のものを動員できる場合には心の底から喜びを感ずる。もちろん動員したくても、もともとそのような力に欠けているのが彼らである。彼らの数は無数である。セネカの言葉にあるように「何人も判断するよりはむしろ信ずることを願う」からである。

ガンガン攻め込んでくる。わたしのことを言われているのかと思うと、こうやって引用していても胸が痛い。でも、良薬口に苦し。ひとは良いことよりも、きついことを言われたときのほうが自分の振る舞いを反省するものだ。
 
哲学書といっても、決して難解な本ばかりではない。
哲学者といっても、決してもやしっ子ばかりではない。
 
ショウペンハウエルのような戦闘的哲学者(?)も大勢いるのだ。本が好きなひとは、自分の「読書」をチェック、改善するために本書を一読するのもアリかと。
 
1960年に初版が出て以来、今年で第74刷になろうかという名著である。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)