メアリー・カラザース『記憶術と書物』(工作舎、1997年)

記憶術と書物―中世ヨーロッパの情報文化

「書かれた文章がやっかいなのは、それが書き手から離れ、いわばひとり歩きを始めて、学識ある人だけではなく、無学なひとの読むところとなってしまう点にある。つまり、書かれたものの教育的価値は、それを読むひとの知識や教養に左右される」
(原文は2014年執筆)
ディヴィジオ・コンポジティオ・メディタティオ。
記憶するには同じテキストを使い続けるといい。それは本に限らない。メモやノート、新聞、どんなものでも構わない。参考書ならば、あれこれ色気を出さずに一冊を使い込むといいだろう。ただしウェブや電子書籍はダメだ。ダメというよりいくぶん記憶に不向きな点がある。
 
情報を記憶するとき、わたしたちは情報とそれを取り巻く空間をセットで頭のなかに放り込んでいる。紙に印刷されたテキストは位置を変えない。読み終えた本の情報に再度アクセスしようとするとき、本の後半にあったとか、ページの上段にあったとか、空間を手がかりにページをめくる。そんな経験がだれにもあるだろう。
 
しかしこれがウェブや電子書籍では、文字の大きさを変えてしまうと情報の位置が変わってしまう。右にあったものが左へズレたり、ページの後半にあったものが次ページへ繰り越されたり、ということが起こる。空間の手がかりを喪失した情報が、ひとのあたまのなかでどのように格納されているのか、そして従来通り有効に活用され得るのか。この認知プロセスの変化は研究を必要とするだろう。
 
頭のなかに馴染みのある場所を思い浮かべる。会社のオフィス、近所の公園、商店街のカフェなど、よく見知っていればどこでもいい。次に、そこに存在するものを片っ端から書き出してみよう。カフェを例にする。座席やテーブル、カウンターのような大ぶりなものはすぐに思い出せるだろう。だが空間を手がかりにすると、テーブルに残された指紋やランプシェードのうえの埃といった瑣末なものまで思い出すことが可能になるはずだ。こうして列挙された情報がすべて記憶の産物であることに異論はないだろう。
 
まだ携帯がない時代、わたしの友人は電話番号を記憶するのにA4の紙に書きなぐっていた。文字・数字の大きさは大小バラバラ、傾きもバラバラ。記された位置と情報の順列にもなんら法則性が存在しない。わたしが「雑な性格、丸出しだな。きちんとしたリストにすればいいじゃないか」と揶揄したら、友人は「何を言ってる。この滅茶苦茶がいいんだ。あとで思い返したときに、Kの番号は紙のこのあたり、Sのはあのあたりと模様になって頭に浮かんでくる」と言い返してきた。「この男、天才だ」と思った。
 
このように個々の情報は、それが位置する空間座標(メタ情報)を丸抱えにしたまま記憶されるものなのだ。カフェのなかであろうとA4の紙のうえであろうと。ところが、ウェブや電子書籍といったメディアは、うえで書いた通りフォントサイズや紙面のレイアウトを変えられる。これは情報に紐づけられる空間情報が変わってしまうことを意味する。つまり記憶の手がかりが大きく損なわれている。記憶が不利になると即断はしないが、少なくとも有利になることはなかろう。
 
トマス・ハリスが産み落とした闇と狂気の紳士、ハンニバル・レクター。小説『ハンニバル』では、古今東西の美術品の記憶を収蔵するために、彼が自分の脳内に「記憶の宮殿」を構築しているようすが描かれる。頭のなかに宮殿を築き、そこの回廊なり、天井なり、壁なりに美術品を配置してゆくのだ。それらを鑑賞したいときには、現実同様に宮殿のなかを歩いて巡ればいいという理屈。いついかなるときにも、どのような順番にも楽しむことができる。しかも物理的な距離は一切無視されるから、観たいものに即座にアプローチできる。対象の拡縮や視点の設定なども自由自在だ。この記憶の宮殿に関して、本書『記憶術と書物』も大きく紙幅を割いている。
 
何かを問われ、答えるときに、わたしもついスマホブラウザーを立ち上げることが多くなった。相手に間違ったことを伝えてはいけないという配慮のつもりだが、これは自分の記憶に自信がないことの裏返しともいえよう。〈正確さ〉は情報にとって大事なファクターだが、一方で、脳内の坩堝で化学変化を起こした突拍子もないシロモノ、誤解・勘違いにこそ新しい発見があったりもする。そのためにはそもそも坩堝に材料が入っている必要があり、それがすなわち記憶でもある。
 
外部記憶装置に頼っているうちに頭のなかの記憶の宮殿は自壊する。加齢によるものはいたしかたないとしても、かつての記憶のうえを映画『猿の惑星』のようにもの珍しく徘徊する愚はなるべく減らしたいと願っている。

 

記憶術と書物―中世ヨーロッパの情報文化

記憶術と書物―中世ヨーロッパの情報文化

  • 作者: メアリーカラザース,石原剛一郎,Mary Carruthers,別宮貞徳,家本清美,野口迪子,柴田裕之,岩倉桂子,別宮幸徳
  • 出版社/メーカー: 工作舎
  • 発売日: 1997/10/01
  • メディア: 単行本
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