宇野常寛『母性のディストピア』(集英社、2017年)

母性のディストピア

宇野常寛『母性のディストピア』を読み終わる。40万字というから、これ一冊で新書4~5冊分の分量にはなろう。昨年は例年に比べ読み終えた本の冊数が少なかった。いささか怠けすぎたかとも考えたが、つい最近もスタッズ・ターケル『「よい戦争」』みたいな分厚な著作を読んでいた。冊数の消化が遅々として進まないのはいたしかたない。
 
ところでこの本、ひとには薦めにくい。わたし個人は本書を奇書に分類していいとすら感じている。同じことが何度も何度も繰り返し記述される。言葉は悪いが、アルツハイマーかと思うくらいにひどく、うんざりしてくる。重複を削っていったら本書は半分のボリュームになろう。Amazonレビューでは10分の1まで削れると書くひともいる。10分の1にしたら新書1冊の分量にもならない。しかもそのくどさにはナード系、いわゆる嫌われオタクの意識が瑞々しいくらい発散されている。端的に言えば、オタクをこじらせている。
 
戦後日本は、良くも悪くもアメリカの支配下にあって繁栄を享受してきた。アメリカの影が目障りならば、いっときの苦労(経済的停滞・国防的重圧など)を背負い込む覚悟をし、何が何でも対米自立の道を模索しなければならなかった。しかし右派から左派まで多くの日本人が見て見ぬふりをした。核の傘に守られ、金儲けだけに勤しみ、消費を享受することで遊んでいられたからだ。これがかいつまんだ日本の戦後史である。
 
アメリカに政治的な部分を覆い尽くされた日本人の態度は大きくふたつに割れた。右派はアメリカ従属賛成のもと経済ごっこをした。左派はアメリカ従属反対のもと政治ごっこをした。アメリカによってどちらも政治的な決断からは遠ざけられている。だから口先番長みたいなことで自分のヘタレさを隠そうとした。右派は、この生活が守りたければアメリカに魂を売り渡すしかないんだよ、と〈偽悪〉を演じる。左派は、こんな世界は変えなきゃならん(でも変える気はないけどね)、と〈偽善〉を演じる。左派が反権力を打ち出していようと、せっかくアメリカの支配下で経済的繁栄を謳歌しているのにその果実をみすみす手放すバカはない。だから建前上、「こんな世界を変えなきゃならん」と〈偽善〉を演じる。しかし変えるべき世界であるところの「現実」すなわち政治的な部分はアメリカのコントロール下にあって、いかんとも動かしがたい。そこで「虚構」すなわち自由・平等・博愛・平和・正義・人権・反核・反原発・反差別・多様性・反捕鯨エトセトラにこじつけて、おあつらえ向きに〈偽悪〉を演じてくれている右派、すなわち「日本(と戦前)」を仮想敵に設定し、延々、反対の反対は賛成なのだみたいなトンチンカンな議論を長く続けてきた。長らくの習性が左派のレゾンデートルにもなってしまった。これが現在に至る左派政治家から左派言論人、左派文化人までの空疎なキャッチフレーズ遊びの正体である。
 
戦後、アメリカの支配によって「現実(すなわち政治)」にアプローチできない社会状況下とは裏腹に、近代という時代は国家を構成する国民、殊に男性に政治を通じて一人前の男になることを要請した。政治には近づけないのに政治に近づくことで一人前の男になれという日本社会に課された逆説。このギャップを解消するには、女性が「あなたは一人前の男よ」と承認してくれればいい。女性もまた近代化に伴い、自己決定する個人としての立ち居振る舞いを要請され、困惑していた。だから男を承認する、庇護するという母のごとき役割を進んで引き受けた。本書では、一人前の男の属性を「父性」と呼び、母として男性に承認を与える女性の属性を「母性」と呼ぶ。母性は、男性から必要とされる強度に応じてみずからの存在感を増す。存在感を増し、肥大した母性は、家をかたくなに守ろうとする前近代における自分の役割への回帰を希求するようになる。家族の成員に自立を認めず、すべてを家のなかに取り込み、おのれの目が届く範囲にとどめ置こうとするのだ。家は「母胎」のメタファーでもある。結果、日本の男性は、一人前の男になろうとして女性に母としての承認を求めるほど、肥大した母性の胎内に取り込まれ、父性の確立を断念せざるを得なくなる。母性による管理社会(=ディストピア)、これが本書のタイトル「母性のディストピア」が意味するところだ。未成熟な男性の依存を存立基盤として肥大する母性と、結果確立し得ない父性が意味するところの女性・男性は、いよいよ「現実(すなわち政治)」への関心を喪い、その体裁の悪さを隠すために右派的〈偽悪〉と左派的〈偽善〉のパフォーマンスを強めていく。こうした時代精神のありようは戦後アニメの表現にも敏感に反映された。それが特に顕著だったのが宮崎・富野・押井の三者である。彼らは、母性の重力から逃れんとしてもがくが、それぞれの理由において桎梏を脱することが叶わなかった。彼らの作品を検証しつつ、母性のディストピアのありようと彼らの失敗へと至る闘争のいきさつを確認する。果たして、母性のディストピアからの離脱を可能とする隘路を突破する者はあり得るのか。
 
以上が本書の趣旨である。
 
以上の梗概というか、あらましを読んでもらっても、さまざまな批判点が見えてこよう。富国強兵のかけ声のもと、近代化の道を突き進んだ日本が近代的自己決定性を「父」すなわち男性に比定したのはその通りであろう。だが戦後、政治的にアプローチできない男性が前近代への回帰を希求する女性の承認をもって「父」となるというプロセスだけをもって、時代のありようを概括的なレベルで規定するのはあまりに大風呂敷と言える。政治的自立性をもてないから「甘え(=右派)」や「小狡さ(=左派)」といった偽悪・偽善が巷間にまかり通るという江藤淳を引いた見方は確かにあるが、これはむしろ土居健郎『甘えの構造』や山本七平『「空気」の研究』、中根千枝『タテ社会の人間関係』、阿部謹也『「世間」とは何か』などの日本人論を参照したほうが説明がつきやすい。原因は近代社会の要請にあるのではなく、むしろ日本人のジーンとミームのなかに潜んでいるのだ。
 
また、もっぱら男性の立場からのみ、公と私の関係性を考察する本書であるが、それに比して女性は男性の求めに応じてディストピアを発揮する極めて受動的な存在でしか描かれていない。これもまた戦前の富国強兵策に端を発した専業主婦の拡大に見られる社会構造の変化とそれに伴う女性に要請された役割の変遷を視野におさめておかないと片手落ちになるのではないか。まして近代までならあり得た母性管理への遡行という思考が20世紀後半のアニメーション分析の切り口になり得るのだろうか。こう言っては申し訳ないが、宮崎・富野・押井の三氏は、男ぶりも良くないし、女性との関係においていわゆるリア充ではなく、オタク的コンプレックスを大いにこじらせた人びとではないか。そうした監督たちの作品が女性を好意的に扱うわけはないし、女性特有の対人関係におけるマウンティングをディストピアと見なしている可能性は大いにある。言い換えるなら、社会に母性のディストピアが充満しているから彼らの作品がそれを反映したのではなく、彼らが作ったから母性のディストピアみたいな作品ができあがったのではないか。限りない憧れの対象である一方、常に自分のコンプレックスを刺激してくる愛憎半ばする存在が三者にとっての女性ではないのか(わたしはこれに宇野氏自身も含まれると考えている)。事実『ガンダム』などは、未成熟な少女は生き延びる可能性が高いが、成熟した女性はたいてい死ぬ。後期の作品に至っては、女性不信が増したせいか少女も含めた女性キャラクターが全員死んでしまう作品もある。すぐに染まるクラリスのような少女に対しては寛容だが、出し抜く峰不二子のような女性には眼を光らすというのが、わたしなどは三氏の基本的なスタンスに思えてしようがないのだが。ある種のミソジニーとも言える。しかもこの三氏はまごうことなき左派系文化人である。「母性」に戦前の軍国主義や国体思想、つまり全体主義や統制主義のメタファーを読み取っている可能性すらある。空を飛ぼうとする男性をディストピアの重力に引き込もうとする構図は、時代のありようというよりもはや彼らの政治姿勢ともいえる。
 
わたしは戦後消去されたものは、政治的アプローチを不可能にされた父性と、任意の集団の帰属意識を下支えする意味での母性と、両者であると考えている。宇野氏のなかには、父性を決定的外交性、母性を排除的内向性とする単純な色分けが透けて見える。しかし父性は現実と切り結ぶ力であると同時にみずからの出自である母性を防衛するちからにも変わり身する。同じことは母性にも言える。母性は我が子を守るために徹底的な排除を指向する一方で、我が子が現実の世界へ飛び出していくための自信を付与する基盤ともなり得る。往時に母親から承認を受けなかった子供が大人になってから極めて自己評価が低く、対人関係、こと異性との付き合いに支障をきたすことはよく知られている事実だ。対人関係を苦手とするオタクには往々にしてこのケースが多い。
 
美味しんぼ』にこんなエピソードがあった。海外で活躍していた料理人が自分の根っこを見失いかけて自信をなくす。そんな彼に山岡が握り飯(=母性)を食べさせたら、自分のルーツを自覚し、また海外で頑張れるちから(=父性)を取り戻す。宇野氏の主張は、簡単に言えば、この「握り飯」と「ちから」のつながりを母性による支配関係だと言っている。母性の本来像とは、子供に従属を強いるだけのものではない。家の外に踏み出しても自分は生きていけるという確信と戻るべき場所としての世界のゼロ座標を授けてくれるものもまた母性なのである。そして父性とは、母性の確信に導かれ家の外に出たうえでなお自律的・自立的に生きていけるちからを指す。母性は父性の背中を押すことで外の世界へ送り出し、父性はみずからの選択と決断による成果物にもとづいて母性の世界内における存続を一層揺るぎなきものにするという相補的循環構造。
 
今の日本人は母性が剥奪されているから内に引きこもる。内に引きこもるから父性が育たない。しかし社会は自己決定論に基づいた父性を要請する。そこで父性の欠如を「身近な人間の支配」や「偽の伝統」によって代理補償しようとする。これが今の日本社会に顕著に見られる傾向だ。母性の支配というよりも、歪んだ父性の補償行為だけが至るところを満たしている。近年子供をペット化する毒親がいて、母性に一部歪んだ印象が貼りついているが、あれを母性による排除的支配と見るか、父性による統制的支配と見るかはよくよく検討しなければならないとわたしは考えている。なんとなれば、父性が男性の特権的所有物でもなければ、母性が女性の特権的所有物でもないからだ。ひとりの人間には父性と母性のいずれもが配賦されている。宇野氏は、父性は男性のもの、母性は女性のものと単純に見なしていないか、その点も気になった。
 
戦後の日本社会を覆う母性のディストピアという主題を補強するために宮崎・富野・押井三氏の作品名を挙げるが、では『巨人の星』はどうなのか、『あしたのジョー』はどうなのか、これらの人気作品に母性のディストピアは内在したのか。前述したが、宮崎・富野・押井の作品に夢中になる人びと(=オタク=宇野氏)だけが母性のディストピアに苦しめられていたのではないか。オタクの尺度をもってのみ社会を裁断して語るのでは、社会論としてはあまりに雑と言える。瑣末なことだが個人的にどうしても言っておきたいのは山田尚子監督『聲の形』は日常系作品ではない。聾唖の少女がイジメに遭い、率先してイジメを行った少年が意識不明の重体になる日常系など聞いたこともない。宇野氏の作品の受け止め方に大いにバイアスを感じる。そこもまた本書の論旨に瑕を与える原因となっている。
 
母性のディストピアという本書の概念が砂上の楼閣だったと措定したとき、本質的な問題を論じ得ず「虚構」に退歩していった左派と母性のディストピアというやや的外れな概念をもとに社会を評論する宇野氏の振る舞いは同じものになってしまう。外に飛び出していけるための母性の力を育むどころか、母性を目の敵にして消去した社会には、戻るべき場所をなくしたホームレスだけが残されるように感じる。これが現状、日本の左派が置かれている精神風景でもあろう。仮想敵として仮構したものすべてが雲散霧消した挙句、ついには「安倍晋三」という固有名詞にすべての罪をおっかぶせなければならないところまでその品位が後退していった左派のことである。アメリカが与えてくれた戦後価値が気に食わんとすべての身ぐるみを剥いでいったら素寒貧になりましたというオチが、宮崎・富野・押井左派系三氏に共通する作品の流れだとわたしは見なしている。さりとて本来的な母性の再興が軍国主義の復活や礼賛くらいの浅薄な歴史理解しかなければ、永久に円環の理のなかをグルグルしているだけなのだよ、ほむらちゃん。
 
まだまだ本書には反論があるが、長くなりすぎたのでひとまずこれで終える。本書を読み、戦後サブカルが理解できたと思っている若者が少なからずいることにやや暗澹とする。

 

母性のディストピア

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