脳髄は物を考える処に非ず-養老孟司『読まない力』より

文明社会では、多くの行為が間接的になる。(養老孟司『読まない力』(PHP新書、2009年)p.117) 

 『僕たちのゲーム史』を書いたさやわか氏は、ゲームとは「ボタンを押すと反応する」ものと定義づけた。一般的なゲーム機は、確かにコントローラーのボタンを押して操作する。また、筐体上でステップを踏む「ダンスダンスレボリューション」や、画面をなぞることで操作するスマホのゲームなどもインターフェースへのタッチが「ボタンを押す」ことの代わりになっていると見なせば、さやわか氏の定義に間違いはなさそうだ。ゲーム内のあらゆるアクションが「ボタンを押す」という間接行為に集約されている。

 養老孟司氏は『読まない力』のなかで、「文明社会では、多くの行為が間接的になる」と書く。氏は人体をバラす解剖に人生を捧げてきた。ひとの身体に直に触れる解剖でさえ、人体の秘密を解き明かせないのに、代議制という間接的な参加形態を取る本邦の政治とは、一体何に投票しているのかとんと分からないと嘆く。

 現代人は脳への信頼がまことに厚い。脳からの指示こそ万事であり、手足は脳の付属物(まさに、手足)くらいに見なしているフシがある。しかしこれは論理が転倒している。脳とは、肉体のかたちに合わせて発達してきた器官だ。ゆえに、肉体のかたちが異なれば、脳内の思考形態もがらりと姿を変える。手足を8本なり10本なりもつ頭足類、早い話がタコやイカにはどうやら人間とはまったく異なった知性が存在すると教えてくれるのが、ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』である。火星人の定番であるタコ人間だが、タコとは人類にとってもっとも身近な異星人であるらしい。

 脳は、一挙手一投足に至るまで行動の選択・指示をしているのではなく、五感を通じて得られた情報に対して微調整をほどこしているに過ぎないのではないか。だから夢野久作は『ドグラ・マグラ』で「脳髄は物を考える処に非ず」論をぶちあげた。脳が主体的に行動を選択しているのではない、環境が行動するための手がかりを我々に与えている。ギブソンが『生態学的視覚論』で紹介したアフォーダンスという考え方だ。目の前に椅子があるから座ることを選択するのではない。椅子という環境情報がわたしたちに座るという行為の可能性を示すのだ。

 環境情報を収集するのは視覚を中心とした五感のすべて、すなわち肉体である。それにも関わらず、この先ひとの肉体が環境からどんどん引き離され、「多くの行為が間接的になる」なかで人類の質的向上はどのような変化を遂げていくのであろうか。

 

読まない力 (PHP新書)

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僕たちのゲーム史 (星海社新書)

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タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

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ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)

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生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る

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