新たな工夫とずらし-長山靖生『ゴジラとエヴァンゲリオン』より

日本文化は、ある主題を何度も作り変え、そのたびに新たな工夫とずらしによって、同じ登場人物に別のドラマを与えることを得意とする。和歌の本歌取りや歌舞伎の見立てなどがその典型だが、ゴジラもシリーズ化されて子ども向けの正義の味方化が進むにつれ、大いなるマンネリのなか、折々の流行や見立てを取り入れたドラマが作られるようになっていく。(長山靖生ゴジラエヴァンゲリオン』(新潮選書、2016年))

 同じ物語を同じように演じてみても、ひとの世界ではそもそも自同律《AはAである》のごとき表現は不可能である。どうしても《AはA'である》、《AはA''である》といった具合に少しずつズレを生じてしまう。そうでなければ舞台演劇を鑑賞する醍醐味もなかろう。俳優のコンディションはもとより、鑑賞する観客の熱量が日によってまちまちだから、双方の掛け算の結果、舞台で演じられる劇は日々その味わいを変えるのだ。

 まったく同じものが鑑賞したければ、DVDなりBlue-rayなり、記録されたデータを再生すればよい。データ、すなわち情報は不変である。

 現代のパロディという言葉には、どうしても揶揄や風刺のニュアンスが込められてしまうが、本来的な意味においては必ずしもそれらは必要ない。過去の作品を模倣しながらもそこに「新たな工夫とずらし」が加味されているならば、それはパロディと呼んで差し支えないのだ。

 今だと、「艦隊これくしょん」や「Fate Grand Order」のパロディ本がコミケ会場に溢れかえる。作品のなかに登場する艦娘や英霊たちには、二次創作者の数だけ異なった解釈やアレンジがほどこされる。それにも関わらず、同じ艦娘は同じ性格を、同じ英霊は同じ個性を共有している。この味付けだけは守ろうといった取り決めがどこかで明文化されているわけではない。創作者たちが相互に作品を参照し合いながら、暗黙の了解事項を形成していくのだ。読み手は、そうした基本となる骨組みと解釈・アレンジといった被膜のあいだの「身」を、これは味が濃い、こちらは脂が乗っている、あるいは身が引き締まっているといった具合に味わい楽しむのである。

 今日はトンカツ、明日は蕎麦といった日替わりの楽しみ方もあれば、ラーメンだけを食べ続け、それぞれの工夫・違いを楽しむ食事もある。現代では、こうした消費スタイルの違いがそのひとの個性にもなっていくことは言うを俟たない。

 

ゴジラとエヴァンゲリオン (新潮新書)

ゴジラとエヴァンゲリオン (新潮新書)