神々は姿を消していく-山折哲雄『神と仏』より

 ギリシア神話インド神話に現われる神々、あるいはギリシア彫刻やインド彫刻に登場する神々を眺めていると、日本の神話や造形美術に描かれている神々には、個人差というものがまったく欠けているといっていい。年齢とか容姿とかいう点で、いい意味での定型性が与えられていないのである。(山折哲雄『神と仏』(講談社現代新書、1983年)p.28-29)

 要するに、日本の神々の存在様式を特徴づけるものの一つに、匿名性という問題があったのではないだろうか。無署名性、といってもいいだろう。ことさらな言挙げをしない。自己の個性を主張しない、という意味である。(山折哲雄『神と仏』(講談社現代新書、1983年)p.29)

 神々は、自己の主体的な個性を主張しつつ、共同体社会に立ち向かうのではない。社会に対立し、社会に対して予言を降すのではない。むしろ共同体社会の内部に深く沈潜し浸透することによって、没個性的な産土神や鎮守の神へと転生をとげていく。「場所」の内奥へと鎮まりゆくことを通して、自己の性格を消却していったのである。(山折哲雄『神と仏』(講談社現代新書、1983年)p.30)

 神々のありようとは、それを崇め奉る人びとのありようでもある。神々が「我が、我が」と我をがなりたてるのであれば、その足元にひれ伏す大衆もまた個性というものに重きを置くだろう。逆に、神々がその存在を消し去っていくのであれば、大衆もまた個人を場の動向に溶け込ませることを旨とするだろう。

 今の天皇陛下は現人神ではないけれども、そうした神々の命脈に連なるとされる人びとの住まい、すなわち皇居が東京のど真ん中にあって、しかも空白として機能し続けていることを『表徴の帝国』を書いたロラン・バルトは喝破した。

 現代の日本人が事あるごとにもちだすアイデンティティやら個性やらが、決して日本出自の文化でないことはこうしたことからも推察されるのである。

 

神と仏 (講談社現代新書)

神と仏 (講談社現代新書)

 
表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)