ジリ貧していく部分最適化-升田幸三『勝負』より

 将棋は王さんを詰めることが主ですから、少々の損はかまわんですけれど、碁は本来、そうはゆかない。損をしてはダメなんです。だから早く儲けようとするし、自分の場所をとられまいと必死になる。
 ところが碁のおもしろいところは、王様をとられたらおしまいという将棋と違って、命がたくさんあるんですな。あっちの隅が死んでもこっちは生きとるというふうに、ふりかえがきく。
 そういうゲームであるにもかかわらず、ヘタはどうしても、局部の利益にとらわれがちになる。これがつまり、碁といわず、将棋といわず、人生においても、いわゆる弱者の考え方というものなんです。
 ヘタは、わずかな損でもいかんといちずに思いこんで、そしてもっと大きいところがあるんだからそれを捨て石にすりゃいいのに、へばりついて、それでダメにしてしまう。
 つまり全体利益を忘れて、部分だけにとらわれるんだな。私はこれを、弱者の思想と呼んでるんです。(升田幸三『勝負』(中公文庫、2002年)p.62)

 ネットは平等である。何が平等かといえば、従来弱者として世間に声をもてなかった人びとも、平等におのれが所信を表明できるようになった。このことで、今までひとりで苦しみを抱え込まざるを得なかったひとたちが、それを世間に明らかにし、少なからず救済の道が開けるようなことが可能となった。

 しかし禍福は糾える縄の如し。ネットの福音は悪しきものをも生みだした。それが「弱者の思想」である。〈個人〉の苦しみや不快感を訴えるにとどまらず、その解消を社会〈全体〉に強制する。要するに、〈全体〉が〈個人〉に歩調を合わせろというのだ。これを「個人最適化」という。

 社会が本来〈全体〉に振り向けるリソースを〈個人〉のためにばかり使っていれば、社会構造にひずみが生じるばかりか、陳腐化した制度などの改修もとどこおり、社会全体でジリ貧になっていく。会社のなかの「給料が安い」という声は、その〈個人〉をどうこうするのではなく、会社〈全体〉で底上げしなければ救済の本末が転倒するのだ。

 豊かさを実感できない日本経済と、あちらこちらから上がる「弱者」の声とのあいだには少なからず相関関係が見いだせよう。気づいているひとは多いと思うが、「弱者」だという提案の背後において、語られぬものにこそ彼らの真の思惑があるのだ。

 

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