創造と狂気-ピエール瀧氏と舛添氏--中村雄二郎『述語集』より

狂気とはまず、人間の根源的自然として、理性によって区別され、限定され、しばしば抑圧されるものとして捉えられることができる。だから、狂気がどのようなものとして現われ、どのようなものとして理解されるかということは、逆に、狂気と区別され分割された理性がいかなるものであるかを照らし出すことになる。そのようなものとして、狂気はその時代その社会の支配的秩序とその相関者としての理性を映し出す働きをもっている。そして理性と秩序の支配がつよまり、形式化され、自己目的化するとき、狂気はそれによって閉じこめられて、本来もちえた創造性を失うとともに、それに応じて、理性も秩序も、硬直した貧しいものになっていく。(中村雄二郎『述語集』(岩波新書1984年)p.49-50) 

 理性や秩序というのは積み木細工のようなものである。ひとつひとつ積み上げていくことで堅牢な建物を構築することができる。だが堅牢が売りであるがゆえに、途中を手抜きしたり、一か八かの偶然に賭けるようなきわどい積み方をしていれば、瓦解を起こしてしまうので冒険ができない。面白みがないとも言い換えられよう。

 たまさかひとを驚かすには、そこに一滴の狂気が必要となる。この場合の狂気とは、精神的不調の謂ではなく、思考の飛翔・飛躍を指す。

 ピエール瀧氏がコカインの使用で逮捕された。そのことについて舛添氏が以下のツイートを発信した。 

「品行方正な芸人に魅力はない」というのっけからの一文がずいぶんと反発も生んでいるようだ。もちろん、舛添氏はコカインの使用を肯定しているわけでもないし、ピエール瀧氏に限って穏便に取り計らえと言っているわけでもなかろう。ただ、ひとを面白がらせる職業に狂気は付きものだし、ひとたび犯罪を起こしたときに溺れた犬を叩くような今の日本社会のありかたに氏なりに疑問を呈しているのだ。ピエール瀧氏が関わった楽曲が軒並み店頭から回収されていることに「そこまでするのか」という抗議がもちあがっているが、舛添氏の発言はまさにそうした過剰ともいえる自粛へのプロテストでもある。 

 社会が何を狂気と認定するかで、その時代の理性・秩序の枠組みも決定する。したがって目につくものを片っ端から狂気として幅広く断罪していくと、それに反比例して理性・秩序のテリトリーはどんどん小さくなり、かつ内容も貧しいものになっていく。それを純粋とも尖鋭的とも言い換えることはできようが、矮小かつ貧相なものから新しいものが生まれることは考えにくい。以下のような言葉もまた参考にはなるまいか。

あらゆる笑いの芸術家の深層に潜む、ある共通した暗さの存在を心得ておく必要があるだろう。(筒井康隆『短編小説講義』(講談社、2014年)p.89)

 

術語集―気になることば (岩波新書)

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創作の極意と掟 (講談社文庫)

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