ミエナイ世界-春日太一『天才 勝新太郎』より

 勝は自宅に「合気道創始者」という武道の達人を招き、教えを乞う。合気道は、相手の攻撃を受けて、その力を応用して倒す護身術。盲目のため、自ら先制攻撃することのできない座頭市に通じる精神があると勝は考えていた。
 達人が勝に説いたのが、「恐怖を感じる宇宙」ということだった。つまり、目が見える人間とそうでない人間とでは、恐怖を感じる空間が違うというのである。目の開いている人間の場合、敵に襲いかかられても視覚により事前に察知して身構えたり避けることができる。一方、盲人の場合、相手のが目前まで来て、音や風を感じてから、はじめて襲来に気づく。いつ突然の襲来があるかわからないということは、座頭市はたえず、「恐怖を感じる宇宙」にその身を委ねていることでもある。座頭市の戦いは、この「恐怖を感じる宇宙」との戦いだと勝は気づく。(春日太一『天才 勝新太郎』(新潮新書、2010年)p.64-65)

 五感と一緒くたにされるが、ひとが頼りにする感覚の内訳は大きく異なる。メアキの場合、視覚への依存度は7割とも8割とも見積もられる。見方を逆さにすれば、残りの2割から3割を残る4感(聴覚・嗅覚・触覚・味覚)で分配していることになる。アンバランスなこと極まりない。大袈裟に言えば、脳とは目のために存在している器官とすらいえよう。

 これでは大口取引先からの発注に大きく依存している下請け企業のようである。大口からの発注が途絶えれば、たちまちに干上がってしまう。メアキが見えなくなれば、やはり同じことが起こり得よう。世界が黒一色に塗りつぶされて、手も足も出ないことになる。そうした暗黒世界を疑似体験させ、五感を研ぎ澄ませようという試みが「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」なのであろう。

 メアキは、視覚に大きく依存した自分を基準にメクラを考えるから、彼らがさぞかし不自由だと感じる。ところが、メクラは思いのほか世界が見えているという。もちろん、メアキが見るように見えているわけでもないし、まるで不自由がないわけではない。それでもメアキがある日を境に見えなくなり、足を畳んだ昆虫のように丸まり転がっているしかないのに比べたら、はるかに世界が見えているのだ。

ドグラ・マグラ』を書いた夢野久作は、脳がトップダウンで命令をくだす司令塔ではなく、五感から吸い上げた情報に微調整をほどこすコーディネーターではないかと夢想した。少なくとも生物の身体は脳から手足が生えたのではなく、手足が先にあり、その神経回路を束ね、脳という器官を生みだしている。

 見えないことが「混沌」を意味するメアキにとって、見えることは世界を「秩序」だてるための第一歩である。しかし過度にこの考え方に取り憑かれることで、わたしたちはメアキのようには世界を見ていないメクラを悪気のないまま「混沌」に分類している。それはメクラだけではない。ツンボも、オシもそうである。そして、やはり無自覚のうちに「混沌」を〈悪〉と見なすわたしたちは、そうした五感の一部を欠損した人びとを禁忌の対象にしてしまっている。これが、差別用語とやらの氾濫の水底に淀む思想ではあるまいか。

 

天才 勝新太郎 (文春新書)

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ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)

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