わたしにとっておもしろい-梅棹忠夫『知的生産の技術』より

わたしの場合をいうと、じつはカードにメモやらかきぬきやらをするのは、全部第二の文脈においてなのである。つまり、わたしにとって「おもしろい」ことがらだけであって、著者にとって「だいじな」ところは、いっさいかかない。(梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)p.113)

 梅棹忠夫氏は本を読むとき、「わたしにとっておもしろい」ことがらに着目するという。「著者にとってだいじ」な点でもなければ、「わたしにとってだいじ」な点でもない。あくまでも「おもしろい」ところがミソであろう。

 本は自分のために読む。ならば、著者が何を大事に思おうが、一切当方の与り知らぬことである。むしろ大事なところなどズレていて当然だし、重なったところで、重なったという事実以上の意味を持ち得まい。それに、著者の思想に染まらんとして本を読むならば、それは読書を通じた知的活動というよりも宗教である。

 結局のところ、ひとがある情報に触れ、そのことから思索を深めるのは広義の意味でおもしろいからだ。アハハと笑うだけがおもしろいのではない。記された内容が難解すぎておもしろいこともあれば、磨きあげられた言語表現をおもしろいと思うこともある。対象へのアプローチが独特でおもしろいこともあれば、著者が見落としている点を発見しておもしろいこともある。広義の意味とはこうしたことである。

 おもしろいが情動ならば、だいじは理性の範疇に入る。だいじだけれども退屈でいっかな頭に入ってこないことはいくらでもあろう。受験生などは目の前の勉強がだいじなことは分かっている。しかしおもしろくないから飽きてしまう。そしてもっとおもしろいLINEかPS4か、はたまたSwitchか、いずれそんなところに逃げ込んでしまうのだ。

 ひとつでもふたつでも役立つことを見つけようとして本を読み始めるとこれは理性的な読み方になる。読み通せればそれでも構わないが、飽きたら最後である。おもしろいと感じて読めれば、役に立つかどうかはさておき、最後まで読み通せる。また、そのほうが本の中身も頭のなかに定着しやすい。このことは脳の研究で明らかになっている。

 理性と秩序の支配が優勢になると、社会もひとも余裕を失っていく。「自己責任」という理性至上主義などその最たるものであろう。余裕を失った社会からは創造性が奪われる。少しも楽しくないため、新しいことを初めてみる気にも、最後までやりとげてみる気にもなれないからだ。

 

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

 
術語集―気になることば (岩波新書)

術語集―気になることば (岩波新書)