感情を煽る理性-岡潔『春宵十話』より

 理性的な世界は自他の対立している世界で、これに対して宗教的な世界は自他対立のない世界といえる。自他対立の世界では、生きるに生きられず死ぬに死ねないといった悲しみはどうしてもなくならない。自と他が同一になったところで初めて悲しみが解消するのである。(岡潔『春宵十話』(光文社文庫、2006年)、p.59)

 自己責任論が幅を利かせるほど、被害者意識の強い人は増える。
 というのも、自己責任論は、ある意味過酷だからだ。自己責任論を突き詰めると、うまくいかないのはすべて自分のせいということになるが、それを認めるのは非常につらい。何よりも、自己愛が傷つく。だから、強い自己愛の持ち主ほど、自己責任を否認して、「自分に能力がないわけでも、努力が足りないわけでもなく、◯◯のせいでこうなった。自分はあくまでも被害者なのだ」と思い込もうとする。したがって、社会が自己責任を強く求めるほど、他人のせいにして保身を図る人、つまり被害者意識の強い人が増えるわけである。(片田珠美『拡大自殺』(角川選書、2017年)p.198)

 感情という言葉が、だらしない、けじめない、付和雷同といった感じにどこかネガティブなニュアンスで受けとめられる反面、理性なる言葉への現代人の信頼は厚い。ストイックで、快刀乱麻を断つクールさを秘め、何よりも偏差値が高そうだ。

 だが、ひとが理性だけの生き物でないことは日々の食事や、毎日の時間の過ごし方を見ていれば分かる。肥るのが分かっていて、なぜその食事がやめられないのか。翌朝起きるのがつらくなるのに、なぜ寝床でのスマホがやめられないのか。

 つい食べすぎるのも、つい夜更かしするのも、良い悪いはともかく、そこにひとを慰めてくれるものがあるからだ。それだけに、理性ですべてが統御された世界はひとに優しくない。目の前の料理は捨てられ、スマホはへし折られる。他人から理性的に扱われ、感情的なしがらみからの解放感を得ることもあれば、突き放されたことの凍てつきを覚えることもあろう。

 自己保存の観点からは、我が身の利益を最優先で考えるのがもっとも理性的なふるまいということになる。だがそうした人間ばかりで構成された集団は、常に、いかに他人を出し抜くかがキモとなる。要するに、『バトル・ロワイアル』である。柴咲コウのエゴイストや安藤政信サイコパスでなければ勝ち残れまい。

 理性的な人間が増えるほど、ひとは「自己責任」の名のもと、すべてにみずからオトシマエをつけざるを得なくなる。結果、オトシマエのつらさから逃げるため責任転嫁が増え、争いごとも頻々として起こるようになるわけだ。独裁政治という、ひとりの理性に頼る国家では、無謬ということが言われ、壮大な責任転嫁が企てられる

 感情を抑制するはずの理性が、むしろ責任逃れと、それに伴う他人への憎悪という感情を煽る、この矛盾をわたしたちはどのように考えていくべきなのだろうか。

 

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)

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