すり替わる主観と客観-西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』より

つまり、「太郎が花子に話しかけた」と「太郎が花子に話しかけてきた」は客観的には同じ事実でありうるのだけれども、しかし、意味は異なっている。だから、その意味の違いは客観主義ではなくて、主体がものごとをどう捉えているか、つまりわれわれの認知のあり方を意味に反映させるような考え方をしなければいけない。言葉は客観的な事実を表すだけではない。その事実に対する見方・捉え方も表わしているのだ。この考え方が、まさに認知言語学のよって立つ認知主義の意味論というわけですね。(西村義樹野矢茂樹言語学の教室』(中公新書、2013年)p.53-54)

 アライさんが「パークの危機なのだ」と言ってみても、フェネックがそれに続けて「パークの危機ね」と復唱してみても、客観的には「パークが危機である」という同じ事実しか述べていない。それにも関わらず、両者の言葉遣いが異なるのは、事態に対するそれぞれの主観的なスタンスが異なるからだ。アライさんが切迫感を抱いているのに対して、フェネックのほうは何ほどのこともない。この場合、キャラ語尾のことは不問にしておく。

 言葉を発するとき、例えば、

「今わたし、森見登美彦の『有頂天家族』を読んでいます」
「今わたし、森見登美彦の『有頂天家族』を読んでいるんです」

を明確に意識し、使い分けているひとはどれくらいいるだろうか。後者の「ん」は「の」が撥音便化したものだが、これには強意のニュアンスが含まれている。「あなたのことが好きです」と「あなたのことが好きなんです」を声に出して言ってもらえれば、すぐに理解してもらえよう。

 客観的な事実を伝えているようでも、そこにさり気なく主観は紛れ込むし、主観も数多く集めれば、そこに客観が姿をあらわすかも知れない。ことほどさように、主観と客観とは実はそれほど明確に線引を図れるものではないようだ。

 この主観と客観を隔てる壁の脆弱さは、「わたし」が何者であるかをいくら主張しようとも、他者が規定してしまえば、「わたし」の自我なり肩書なりが決まってしまうということにも似ている。俗に資格マニアと呼ばれる人びとがいるが、資格という客観的事実が積み上がることで、そのひとのアイデンティティが強化されることもあろう。

 

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