おそわりそだつ-岡潔『春宵十話』より

 浪人中の学生で、大学に入ったら月に一ぺん論文を書くから私に直してほしいというのもあった。いまの学生で目につくことは、非常におごりたかぶっているということである。もう少し頭が低くならなければ人のいうことはわかるまいと思う。謙虚でなければ自分より高い水準のものは決してわからない。せいぜい同じ水準か、多分それより下のものしかわからない。それは教育の根本原理の一つである。だからそういう態度でいれば必ず下に落ちてゆくもので、まず上に行くことはない。三人来たが押しなべてそうんなふうだった。(岡潔『春宵十話』(光文社文庫、2006年)p.103)

「教える側もまた教えることを通じて学び向上していく、ゆえに教師と生徒は共に学習者なのだ」これは、あくまでも教える側に立つ人間にとっての自戒であり、矜持であり、韜晦である。学ぶ側がこの理屈を、本来非対称である教える側と学ぶ側の立場を対等にしようと持ち出すのならばそれは詭弁と言わざるを得ない。

 教育の根本原理のひとつは、教える者は「もつ者」であり、学ぶ者は「もたざる者」であるということだ。喩えるなら、教える者とは本棚に蔵書を並べた者、学ぶ者とは空っぽの本棚を所有する者。学ぶとは、この空っぽの本棚に先学から譲り受けた本を並べることにほかならない。譲り受けた本に価値はないと棚に並べぬどころか、あまつさえ二束三文でブックオフに買い取らせようなおごりたかぶったことをしていれば、学習のはかが行かないことは自明であろう。

 教育の文字を「おしえそだてる」と教える側に主体をおいて読み解くひとが多いが、これは「おそわりそだつ」の意味である。教わる側に主体性がなければ教育はものにならない。それが証拠に、教師がいなくとも、教わる側に本棚を埋めんとする意欲と謙虚さが備わっていれば、自宅でも図書館でも、はたまた自然のなかに身を置いていても学ぶことは可能である。

 以上のような意味からは教育の成果とは多分に「自己責任」に依っていることが分かる。教える側がどれだけ精魂尽くしても、学ぶ側が木石のごとく鳴り響かぬのであれば、教育などは犬に論語、兎に祭文だからである。そして、そうした自己責任のつらさに気づいていればこそ、昨今のように教育の責任が教える側にのみ責任転嫁されてしまうのだろう。修身ということが軽んじられている現代の風潮からは、まだまだ教育の先行きが暗いと言わざるを得ない。

 

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)

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