消える言葉、増えるコトバ-川島隆太・安達忠夫『脳と音読』より

論理的思考力や情緒力の源泉は、なんといっても国語力、すなわち「ことばの力」です。(川島隆太・安達忠夫『脳と音読』)

  ある民族にとっての国語とは、彼らを取り巻く世界の引き写しである。山岳地帯に暮らす人びとは海に関する語彙をもたないだろうし、砂漠の真っ只中に暮らす人びとは密林に関する語彙の必要性を感じないだろう。必要性というか、そもそも身の回りに密林が存在していないのだから語彙の作りようがない。

 身の回りに存在しないからそれをあらわす言葉がないのは言ってしまえば論理の帰結だが、身の回りに存在するのに何かの理由で言葉だけが消えてしまうケースがある。理由として考えられるのは、そこに暮らす人びとの感性の摩耗である。

 今「赤」とひとまとめにされている色も、古くは暗い赤から明るい赤までを「絳・朱・赤・丹・紅」と表現した。X JAPAN「紅」がもっとも明るい赤、すなわち鮮紅色をあらわしていることが分かろう。昔のひとはこうしたスペクトラムになった語彙をもっていただけではなく、生活のなかで区別していたはずである。

 現代人の語彙のシュリンクは色に限った話ではない。感情や味、雨や風といった気象、花や樹木、動物や魚などの分野においても起きている。恥をさらして明かせば、わたしなどもサメやエイくらい特徴的なものを除いては、多くの魚を「魚」で済ませてしまっている。

 こうした自然にまつわる語彙が減少している一方で、人権やら平和やら平等やら、この世に実体をもたぬ概念語の増殖は著しい。こうした現今を見回すと、ひとの暮らしがいよいよ自然と切り離され、地に足をつけていないようで少々薄気味悪い。逆に、実体のないものについてよくそこまで甲論乙駁できるものだと感心するところもある。

 ひとの思い通りにならない自然物をすべてカオスとして遠ざけ、代わりに「ああすれば、こうなる」という理性や秩序ばかりで世界を固めていってしまうと、その文化・文明は柔軟性を喪失し、飛躍的な発想、すなわち創造性を失ってしまう。ボキャブラリーの多寡を競うよりも、まず自分がどんな語彙を知っているのか、チェックする必要はあるまいか。

 

脳と音読 (講談社現代新書)

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