不完全ゆえに吾あり-岡倉覚三『茶の本』より

茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。(岡倉覚三『茶の本』改版(岩波文庫、1961年))

 不完全とは、缺けていることだ。そこが盈ちれば、不完全は完全となろう。ただ、もはやそれ以上に付け足すことはできなくなる。それ以上は蛇足となってしまう。缺けている部分をとどめたままにしておけば、ひとは盈ちる直前の昂揚感を永遠にもち続けられる。あるいは、完成した姿をさまざまに夢想し続けられる。頭のなかに描かれる完成形のイマジネーションは、幻像であるがゆえに現実よりも一層美しい。旅行が、道中にあるときよりも、その準備に胸膨らませているあいだのほうが楽しいのと同じだ。

 不完全は、吸引力をもつ。その意味においては、不完全は生きていると言って差し支えない。生きて、ひとに触り、障ってくるのだ。ならば逆に、完全とは死んだものを指すのだろうか。その見立てはあながち見当外れでもあるまい。完全なものがひとのこころに訴えるのは、その完全であるという態様そのものに因るわけで、それは幾何学的調和がもたらすところの視覚的、受動的感銘なのである。数学的、秩序的な美と言い換えてもよい。そこには生きているものに共通するところの運動がない。ひとをして欠けている箇所をためつすがめつさせる不完全とはおのずからその性質が異なる。

 ひとは完成したものよりも未完成なものを長く記憶に留めるという。これを認知心理学ではツァイガルニク効果と呼ぶ。すべてをスポットライトのもとにさらけ出すのではない。どこかに隠されたものを秘めもつほうが、ひときわ魅力的なのだ。神秘的、魔術的といった意味で知られるオカルトという言葉、その語源がラテン語の「隠された」に由来することはつとに知られた雑学である。だから、ひとは科学がこれだけ発達した今もオカルトに惹きつけられるのだろう。

 そして人間自身もまた永遠に完成することがない。ゆえに、より良き自分を探し求めて、死ぬその日まで旅することをやめない。

 

茶の本 (岩波文庫)

茶の本 (岩波文庫)