二重の自己意識-木村敏『あいだ』より

 ひとが現在というこの瞬間において何かをするとき、それは車を運転することでも、本を読むことでも、仕事で取引先と話すことでも構わないが、これまでにしてきたことが今するべきことを決め、かつこれから先の方針を拘束していく。

 分かりやすく説明するために、自動車の運転を取りあげる。今現在のスピードや車線変更の要不要を決定するには、これまでの運転状況(残燃料、走行距離、生理現象=トイレや喉の渇きなどなど)を振り返ることが必要になる。思ったよりも距離を稼いでいないことに気づけば、加速し、車線変更も必要となろう。それに伴う後続車への確認作業も通常運転より頻繁になるだろう。

 同様に、これまでの運転状況が未来の方針も決めていく。もうかれこれ2時間も運転しているのなら、次のサービスエリアでトイレに寄っておいたほうがいいかも知れない。その次になると万が一ということもある。サービスエリアに寄るのならば、ちょっと早めの昼食を取ってもいいだろう。こうした方針が決定することで、また現在の運転が変わる。サービスエリアへの分岐がある左側の車線を維持しようとするはずだ。

 つまりわたしたちにとって車の運転とは、ハンドルを握り、アクセルとブレーキを踏み分けることだけを指すのではない。そうした直接的な意識と、これまでの運転からこの先の運転までを時間レベルで俯瞰する意識、そうした二重の自己意識が今現在の運転を制御するのである。

 こうした二重の自己意識によって制約される活動の本質は、「わたし」という人間に限った話ではない。国家でも、企業でも、大学サークルでも同じだ。もしそうであるなら、わたしたちやわたしたちの暮らす国家が過去の履歴を一切合財かなぐり捨てて今だけに生きたとしたらどうなるか。今現在の活動に制御がかからないのはもとより、将来の方向性すら見失う。つまり、きわめて近視眼的な〈動物的損得勘定〉にしたがって日々を送ることになろう。

 人間社会に存在するあらゆる活動の主体にとって「これまでのこと」は、現在と未来をかたち作っていくうえで不可欠な要素なのである。隣国における文化大革命のような、ひとつの文化を根絶やしにして大衆を過去から切り離すものは決して日本で起こしてはならない(太平洋戦争での敗戦はひとつの過去からの断絶ではあるのだが)。いまだに元号の存否を問題にして不満を撒き散らすメディアのようすと、木村敏『あいだ』を読んで、つらつら思った次第である。

 

あいだ (ちくま学芸文庫)

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