よそ者は過去をもたない-福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』より

 先生のエッセイ『ガラスの地球を救え』(光文社)の中に、「めげそうになるたびに、いわゆる “主流” というようなものに敵愾心を抱いて、コンチクショウと思ってやってきたのです」という一節がありましたが、あの飽くなき「コンチクショウ」精神が、『グリンゴ』の主人公・日本人(ひもとひとし)を生んだと思います。
 ちなみに、この題名の『グリンゴ』というカタカナ語は、本文中では「よそ者」という南米(スペイン語)のスラングと説明されていますが、戦後の日本人ビジネスマンたちも、世界各地を利害得失だけで行動する「エコノミック・アニマル」と蔑称されていたものです。(福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(集英社新書、2009年)p.172-173)

 子供の頃に受けたしつけは、大人になってからもそのひとの行動を規制する。子供時分に、クチャクチャという咀嚼音のだらしなさを注意されれば、ひとは大人になってもこれを守る。逆にそうしたしつけを受けていないと、何歳になろうとまったく意に介さなくなるらしい。男性の知人、そのひとの連れ合いがクチャ食べをするので、彼は注意するが一向に改まらないと嘆いていた。

 習慣化した行動が「型」を作り、それから逸脱することの落ち着かなさがひとにマナーを守らせる。したがって、習慣化した行動という過去の蓄積が雲散霧消してしまえば、ひとはすぐさま勝手気ままに振る舞うようになろう。また、過去において習慣化という貯金する姿勢を獲得できなかったひとが、これから先貯金を重視するようなるとも考えにくい。要するに、きわめて近視眼的な〈動物的損得勘定〉がそのひとの生活を支配するということだ。まさにその日暮らしである。

 日本人がエコノミック・アニマルと蔑まれた時代に起きたことは、過去の忘却であった。それぞれの国に文化的な文脈、すなわち過去の蓄積があるにも関わらず、それを貨幣というもっぱら現在の価値において蹂躙したのだ。貸借対照表を破却し、損益計算書で相手の頬ヅラをはたいたと言ってもよい。「貨幣(currency)」が「current(今の、現在の)」を語源にしているというのは、きわめて象徴的なことである。

 だが、多くのひとはそういうやり方を時代の主流と見なし、金融の暴走に待ったをかける人びとをバカ扱いした。他人を罵っておけば、自分の健全さの証拠になると思うような人びとを富士正晴は低能と断じたのではなかったか。そのようにしてみずからを理性や秩序の体現者だと自認していた人びとが「貨幣(currency)」に執着し、ひたすら「current(今の、現在の)」にとどまり続けたことで、未来における想像や創造をもたなかったこともまた非常に暗示的である

 

手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書)

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