ゲート・明治維新・趣都

電気街から萌え街へ、萌え街からおなじみのありふれた繁華街へ。日々変貌しつつある秋葉原を見ていて、かつての電気街に郷愁を覚えないと言っては嘘になる。アニメ美少女が発散させる萌え成分をもっと抑制した電気街、チェーンの系列傘下にある飲食店の進出がもっと少ない電気街。そんなものが平行世界としてあってくれたらと、『シュタインズ・ゲート』の鳳凰院凶真こと岡部倫太郎でなくとも、つい、ないものねだりをしてしまいそうだ。ソフマップが警察に摘発された時代を知る若者は、今どれくらいいるのだろうか。
 
秋葉原の地名は町の少々裏手に建立されている秋葉神社に由来する。この神社、静岡県秋葉大権現を勧請したものではなかったが、たび重なる火災のせいでいつしか火伏せの神として人びとによって祀られるようになったらしい。安丸良夫『神々の明治維新』は、遠江国秋葉山の勢力争いについて書く。神仏分離令が出たあとの秋葉山で、寺院と神社のいさかいが生じる。あくまでも秋葉山は寺院であるという主張に対し、神社側が国と結託して山を乗っ取ってしまう。坊さんたちは山を降ろされ別地へ移された。しかし火伏せの神である三尺坊大権現に人気があって、寺院は引き続き繁盛し、秋葉山を奪った神社のほうは没落してしまった。その後、和解がなされるまでに長い時間が必要だったらしい。
 
豊かさの象徴であった白物家電の没落と、高度経済成長期の進歩的な活力の喪失。かつて国民によって夢見られていた〈未来〉が首都である東京から消え去っていくとき、歯抜けのようにあらわれた空白を個人の欲望が充填していく。ここに90年代以降の秋葉原が登場する。そのように指摘するのは、森川嘉一郎趣都の誕生』である。本来個室でのみ許されていたきわめてプライベートな趣味が街に氾濫する。経済を主導していた60年代の「官」から80年代の「民」を経て、ついにオタクに代表される「個」が一国の主役の座に躍り出てきたのである。

 

神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)

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趣都の誕生―萌える都市アキハバラ (幻冬舎文庫)

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イカ娘・ラヴクラフト・心身問題

タイトルに「侵略」の文字があるように、安部真弘侵略!イカ娘』のそもそもの発端は海を汚す人類に対するイカちゃんによる報復にあったわけである。だがそんな設定はすぐ脇に置かれ、万年常夏のギャグ漫画が繰り広げられる。人気の秘訣には、イカというこれまでにだれもが考えなかった擬人化を主人公の少女でやってしまったという奇抜さもあるだろうが、やはり安部先生の作画に負うところが大きい。イカちゃんがとにかく可愛い。おそらく設定は13~14歳といったところなのだろうが、人間世界の世事に微妙に通じていないあどけなさが読者の〈母性本能〉を刺激する。
 
だがホラー小説に詳しいひとならば、頭に触手を生やし深海からあらわれる侵略者と聞いて、真っ先に思い浮かべるのはラヴクラフトによって創造されたクトゥルフではなかろうか。いや、わたしなどはイカちゃんの実父がクトゥルフだったくらいのほうが面白いし、そうであるならば、体重を自由に変えられる腕輪や汚れずかつ自動修復されるワンピースの魔法じみたカラクリにも得心がいってしまう。クトゥルフ以外にも半魚人ダゴンやイソギンチャクのできそないみたいなガタノトーアなど、ラヴクラフトが創造した神々には海を出自とした感じのものが多い。これは彼が海産物を嫌っていたことに由来するらしい。また、極度のひと嫌いでもあったことがミシェル・ウエルベック『H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』に書かれている。厭世的な価値観の持ち主であればこそ、世界の実相が混沌の渦としてその目に映ったのであろう。
 
ところでタコというのは非常に高度な知性を有しており、彼らによる世界の見えかたが人間とは異なり、かつ人間にはそのことが決して理解できないだろうと指摘するのは、ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源』である。タコの食道は脳の真ん中を貫通しているそうで、万が一、食べ物の形状によって脳を損傷したらどうするのかと、わたしは気持ち悪くなってしまった。確かに人間の想像が及ばぬ生き物のようである。火星人をタコのような造形として描写したのはH・G・ウェルズだが、その見立ては案外大きく間違っていなかったのかも知れない。

 

侵略!イカ娘 1 (少年チャンピオン・コミックス)

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タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

 

 

甲賀・芋虫・悪女

少年向けバトル・マンガの基本フォーマットともいえるチーム戦方式を創作の世界に採用したことで知られる、山田風太郎甲賀忍法帖』。甲賀・伊賀双方から10人ずつ選ばれた忍者たちが激突し、相手を皆殺しにするまで戦いが止むことはない。全員が人間離れした能力をもち、いずれも見劣りしないなか、甲賀に地虫十兵衛というひときわ異彩な忍者がいる。彼は四肢を欠損しており、移動するときは必然的に乗り物に頼るか、地べたを這う以外にない。ところがそのスピードや、ほかの忍者が走っても追いつけないというのだから、時速40キロ近くは出ている計算になろう。山田風太郎先生がこちらをお書きになったのは1950年代。今では表現的に問題になり、ちょっと発刊が危ぶまれる。
 
四肢欠損作品の先行事例として、江戸川乱歩「芋虫」がある。四肢と聴覚、味覚を喪失し戦争から帰還した夫を妻が性的に虐待する。これを1920年代に書いて検閲による発禁を食らった。もっとも現代の差別表現とは意味合いが異なる。夫が軍人であるという設定と、戦時下という時局を照らし合わせたときに、反戦的かつ軍人を侮辱しているという理由から問題視されたのだった。乱歩も国家権力もどっちもどっちという感じだ。ちなみに乱歩自身は政治思想にまったく無縁だったが、厭戦気分を煽るおそれのある「芋虫」を左翼は大歓迎したらしい。これまたちょっと感覚がズレている。
 
映画『西太后』にライバル妃の手足を切断し、瓶のなかで生かしていたとするシーンがある。これがやたらとテレビCMに流れたせいで、西太后は残虐な女という認知が日本では広まってしまった。しかし研究者たちがきちんと調べた結果、この刑自体は誤解であることが判明している。政敵の暗殺や国家財政の濫費など確かに悪辣な西太后だが、さすがにやってないことまでぬれぎぬを着せられるのは気の毒であろう。ただ、この「だるま刑」が史実上にまったく存在しないわけでもなく、『史記』には漢王朝を興した劉邦の妻・呂后が側室に行ったと記載されている。劉邦がピンとこないひとには『三国志劉備玄徳の御先祖さまといえば通じるだろうか。こうした悪女たちの行跡を岳真也『悪女たちの残酷史』ではあまた紹介している。

 

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

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悪女たちの残酷史 (講談社+α新書)

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ブライトン・けいおん・エコール

海浜保養地として名高いイギリスのブライトン。そこではブライトン・ロックというスティックキャンディが売られている。ロックといっても音楽とは関係がない。日本の金太郎飴と同じで、どこを切っても「ブライトン・ロック」の文字があらわれる。これを「三つ子の魂百まで」のメタファーとして用いた小説がある。グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』だ。殺人に手を染めた少年がアリバイをでっち上げ、逃げ切りを目論む。ところがそのカラクリを少女が目撃していた。少年は彼女の口を塞ぐために偽りの結婚にまで踏み切る。何が「三つ子の魂百まで」なのかは実際に読んでもらうとして、非常に後味の悪い読後感とも言えるし、人生の真理を達観していると解釈することもできる。どのように読み解くかは読者次第。
 
そんなブライトンから1時間ほどの場所に、垂直に切り立った崖の白さが目に眩しい景勝地セブン・シスターズがある。『映画けいおん!』のエンドロールでは、その崖上に広がる緑の台地を放課後ティータイムの少女たちが風に逆らって走る。正真正銘シリーズ最後の新曲となった「Singing!」、楽器の音がひとつずつ積み重なっていくイントロのカッティングが心地よい。ブライトンの町を背景にしたカットも途中々々に差し挟まれる。
 
Singing!」ではさらに、襟ぐりの深い水色のワンピースと胸元を飾る白いリボン、そんなロリータファッションに身を包み、少女たちが秘密の花園に舞う。「秘密」は「禁断」とも置き換えられよう。赤いラインの入ったハイソックスとスニーカーは清潔さをまたぎこし、性的イノセンスと同性愛的ピュリティという両義性にまで深入りする。澪・唯・梓が三つ編みに結い、律が前髪をおろし、紬がリボンで束ねた髪形もあどけない。すべてにいつ崩れ去ってもおかしくないフラジャイルが漂う。こうした表現はルシール・アザリロヴィック監督の映画『エコール』にインスパイアされたもの。ドイツ文学者フランク・ヴェーデキント『ミネハハ』を原作とした作品である。

 

ブライトン・ロック (ハヤカワepi文庫―グレアム・グリーン・セレクション)

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映画 けいおん!  (Blu-ray 初回限定版)

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エコール(字幕版)

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天気の子・ラピュタ・北斗

映画の内容には一切触れない、もしくは予告編から知り得る範囲で。
 
映画『天気の子』を観ていて、そういえば日本神話に「雲の神」っていたかな、と。調べてみたら豊雲野神トヨクモノノカミ)というのがいることにはいた。とくだんエピソードがある神さまでもなくその点は影が薄い。ただ、造化三神からずっとユニセックスを貫いてきたのが、この神さまを最後に男女の別があらわれる。そういう意味では、あまり男女を意識しなかった少年少女がお互いに恋心を抱くなんてことのメタファーにはふさわしいのかも知れない。これ、創作に使えるネタである。
 
現代人の多くが勘違いしがちなのだが、天気というのは実は太陽や雨が左右するものではなく雲が決めている。太陽はいつだってそこにあるけれど、その存在を覆い隠し、人間を肌寒くするのは雲なのだから。雨も同じだ。海の真っ只中でいくらでもひと知れず降っている。それが人間にとって切実な問題となるのは、結局その雨を雲が連れてくるかこないかという話。だから予告のなかで帆高くんが陽菜ちゃんのことを「100パーセントの晴れ女?」と叫ぶシーンがあるが、もしその能力が本当ならそれは雲を操れることにほかならない。映画『天空の城ラピュタ』では、城が空を飛ぶこと(もしくはバルス)にばかり目を奪われがちだ。しかし巨大な低気圧の渦「竜の巣」に示されているようにラピュタが雲を操れることこそ、人間にとっての本質的な脅威であったといえる。まさに生殺与奪を握られているわけである。
 
どの民族においてもだいたい最高神とされる太陽神、そのパワーすら遮ってしまうせいか、わたしの知る限りでは、ほとんどの神話で雲は神格化されていない。最高神である太陽神より強かったらヤバい。そんななかヤオヨロズというだけあって、雲を神格化していた日本神話はさすがといえよう。原哲夫武論尊北斗の拳』に登場する雲のジュウザはそのキャラクター造形のカッコよさはもとより、従来神話や伝承で擬人化がなされてこなかった雲を背負うキャラクターとしての斬新さがあったことから人気が出た。

 

天空の城ラピュタ [Blu-ray]

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北斗の拳・愛蔵版セット

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まーけっと・餅・いなこん

京都アニメーションのオリジナル・アニメ『たまこまーけっと』のヒロイン・北白川たまこの家は「たまや」という屋号の餅屋。そのことを矜持としている彼女は、四六時中、新商品となる餅のアイディア作りに余念がない。「たまや」は京都・出町柳近くの枡形商店街のなかにあることになっている。
 
考えてみれば、大方の現代人にとって餅など飾るものか食べるものでしかなく、作るひとが多少あったとて、それ以上のことは慮外であろう。ところが調べてみると、うるち米ともち米の違いやら、粘った食感が案外限られた地域の嗜好だったり、煎餅になぜ「餅」の字がつくのかといったことなど、餅は餅なりに奥が深く、話題に事欠かない。こうしたことは法政大学出版局から出ている、渡部忠世・深沢小百合『もち(糯・餅)』に詳しい。
 
餅にはこんな伝説がある。古代の京都に秦伊侶具(はたのいろぐ)という裕福な豪族が暮らしていた。ある日、伊侶具は餅を的にして矢を射た。すると、その餅が白鳥に姿を変えて、山のほうへ飛んでいってしまった。その白鳥の降り立った場所にできたのが今の伏見稲荷大社だという。子孫たちは罰当たりなことをしたと反省して神社を祀ったというから、どうやら伊侶具は遊興のために食べ物を粗末にしたようだ。しかし柳田國男は本来神事だったものの意味が脱落し、不敬な行為として伝承されたのであろうと推理する。伏見稲荷大社主祭神のひとりは宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)である。そんなゲーム大好きウカさまと少女・伏見いなりの友情を描いたマンガによしだもろへいなり、こんこん、恋いろは。』がある。

 

もち(糯・餅) (ものと人間の文化史)

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