見えそうで見えない-鷲田清一『「待つ」ということ』より

意識をひきつらせる。これが、誘導と誘惑のもっとも効果的な手段である。そして意識をひきつらせるには、怖いもの、おぞましいもの、禁じられたもの、つまり、見てはいけないものを見ることの可能性だけを見せるのが、もっとも効果的な方法だ。(鷲田清一『「待つ」ということ』(角川選書、2006年)p.45)

 意識を引きつらせるとは、緊張させるということだ。ストレスをかけ、こころの弾力を目一杯まで引き絞る。すると張り詰めて余裕をなくしたこころはちょっとした刺激にも過敏に反応する。それは神経の大きな負担になろう。夜も眠れなくなるかも知れない。早晩、疲れたこころは一刻も早いストレスからの解放だけを考えるようになる。そしてそれが叶うのならば、ついつい甘い言葉にも乗ってしまう。

 見たいのに見せてもらえないのは、古来よりひとにとって大きなストレスだったのだろう。見るなという禁を破り、悲劇的な結末を迎えてしまう物語が世界中にあって枚挙にいとまがない。『創世記』のソドムとゴモラギリシア神話パンドラの匣オルフェウス、日本神話のイザナギイザナミ、昔話の雪女や鬼婆。

 見るなと言われるほど見たくなることを俗に「カリギュラ効果」と呼ぶ。同名のローマ皇帝と直接の関係はなく、映画『カリギュラ』に由来する言葉である。ピーター・オトゥールマルコム・マクダウェルといった名優を使って撮影したシーンに、彼らに内緒で撮影したハードコア・ポルノの映像を付け加えた奇天烈な作品。こんなものを健全かつ善良なる市民の目に触れさせるのは風紀紊乱のもとである。

 しかし遠ざけられれば遠ざけられるほど見たくなるのがひとの性。しかもポルノならば観たがる者を出歯亀といって笑っていれば済む話だが、隠されたものがどうやら我が身の安全を脅かすとなれば、これは見るなというのが土台無理な注文であろう。そうしたときに権力者は正解らしきものをちらりと見せるのだ。大衆はまたたくまにそれに喰らいつく。権力者にとっては一丁上がりといったところである。

 逆に、見せようにもそもそも隠したものが存在しないとき、大衆はそれを想像力によってあれやこれやと造形する。見ていないくせにと言うべきか、見ていないからと言うべきか、想像力によって翼や尻尾や爪を生やされたパンドラはとてつもない化け物となって人口を膾炙し始める。これが都市伝説となり、さらには集団ヒステリーを引き起こす引き金になっていく。

 

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

学校の怪談: 口承文芸の展開と諸相

学校の怪談: 口承文芸の展開と諸相

 

 

よそ者は過去をもたない-福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』より

 先生のエッセイ『ガラスの地球を救え』(光文社)の中に、「めげそうになるたびに、いわゆる “主流” というようなものに敵愾心を抱いて、コンチクショウと思ってやってきたのです」という一節がありましたが、あの飽くなき「コンチクショウ」精神が、『グリンゴ』の主人公・日本人(ひもとひとし)を生んだと思います。
 ちなみに、この題名の『グリンゴ』というカタカナ語は、本文中では「よそ者」という南米(スペイン語)のスラングと説明されていますが、戦後の日本人ビジネスマンたちも、世界各地を利害得失だけで行動する「エコノミック・アニマル」と蔑称されていたものです。(福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(集英社新書、2009年)p.172-173)

 子供の頃に受けたしつけは、大人になってからもそのひとの行動を規制する。子供時分に、クチャクチャという咀嚼音のだらしなさを注意されれば、ひとは大人になってもこれを守る。逆にそうしたしつけを受けていないと、何歳になろうとまったく意に介さなくなるらしい。男性の知人、そのひとの連れ合いがクチャ食べをするので、彼は注意するが一向に改まらないと嘆いていた。

 習慣化した行動が「型」を作り、それから逸脱することの落ち着かなさがひとにマナーを守らせる。したがって、習慣化した行動という過去の蓄積が雲散霧消してしまえば、ひとはすぐさま勝手気ままに振る舞うようになろう。また、過去において習慣化という貯金する姿勢を獲得できなかったひとが、これから先貯金を重視するようなるとも考えにくい。要するに、きわめて近視眼的な〈動物的損得勘定〉がそのひとの生活を支配するということだ。まさにその日暮らしである。

 日本人がエコノミック・アニマルと蔑まれた時代に起きたことは、過去の忘却であった。それぞれの国に文化的な文脈、すなわち過去の蓄積があるにも関わらず、それを貨幣というもっぱら現在の価値において蹂躙したのだ。貸借対照表を破却し、損益計算書で相手の頬ヅラをはたいたと言ってもよい。「貨幣(currency)」が「current(今の、現在の)」を語源にしているというのは、きわめて象徴的なことである。

 だが、多くのひとはそういうやり方を時代の主流と見なし、金融の暴走に待ったをかける人びとをバカ扱いした。他人を罵っておけば、自分の健全さの証拠になると思うような人びとを富士正晴は低能と断じたのではなかったか。そのようにしてみずからを理性や秩序の体現者だと自認していた人びとが「貨幣(currency)」に執着し、ひたすら「current(今の、現在の)」にとどまり続けたことで、未来における想像や創造をもたなかったこともまた非常に暗示的である

 

手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書)

手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書)

 
勝負 (中公文庫)

勝負 (中公文庫)

 
あいだ (ちくま学芸文庫)

あいだ (ちくま学芸文庫)

 
軽みの死者 (1985年)

軽みの死者 (1985年)

 
術語集―気になることば (岩波新書)

術語集―気になることば (岩波新書)

 

 

籠の鳥

わたしたちは政府に逆らってるつもりなんてないのよ
軍がそう決めつけてるだけ
鳥が籠に入れられれば
毎日大空を夢見るものでしょう?
ティプトリー
TVアニメ『エウレカセブン』(2005年)第8話

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二重の自己意識-木村敏『あいだ』より

 ひとが現在というこの瞬間において何かをするとき、それは車を運転することでも、本を読むことでも、仕事で取引先と話すことでも構わないが、これまでにしてきたことが今するべきことを決め、かつこれから先の方針を拘束していく。

 分かりやすく説明するために、自動車の運転を取りあげる。今現在のスピードや車線変更の要不要を決定するには、これまでの運転状況(残燃料、走行距離、生理現象=トイレや喉の渇きなどなど)を振り返ることが必要になる。思ったよりも距離を稼いでいないことに気づけば、加速し、車線変更も必要となろう。それに伴う後続車への確認作業も通常運転より頻繁になるだろう。

 同様に、これまでの運転状況が未来の方針も決めていく。もうかれこれ2時間も運転しているのなら、次のサービスエリアでトイレに寄っておいたほうがいいかも知れない。その次になると万が一ということもある。サービスエリアに寄るのならば、ちょっと早めの昼食を取ってもいいだろう。こうした方針が決定することで、また現在の運転が変わる。サービスエリアへの分岐がある左側の車線を維持しようとするはずだ。

 つまりわたしたちにとって車の運転とは、ハンドルを握り、アクセルとブレーキを踏み分けることだけを指すのではない。そうした直接的な意識と、これまでの運転からこの先の運転までを時間レベルで俯瞰する意識、そうした二重の自己意識が今現在の運転を制御するのである。

 こうした二重の自己意識によって制約される活動の本質は、「わたし」という人間に限った話ではない。国家でも、企業でも、大学サークルでも同じだ。もしそうであるなら、わたしたちやわたしたちの暮らす国家が過去の履歴を一切合財かなぐり捨てて今だけに生きたとしたらどうなるか。今現在の活動に制御がかからないのはもとより、将来の方向性すら見失う。つまり、きわめて近視眼的な〈動物的損得勘定〉にしたがって日々を送ることになろう。

 人間社会に存在するあらゆる活動の主体にとって「これまでのこと」は、現在と未来をかたち作っていくうえで不可欠な要素なのである。隣国における文化大革命のような、ひとつの文化を根絶やしにして大衆を過去から切り離すものは決して日本で起こしてはならない(太平洋戦争での敗戦はひとつの過去からの断絶ではあるのだが)。いまだに元号の存否を問題にして不満を撒き散らすメディアのようすと、木村敏『あいだ』を読んで、つらつら思った次第である。

 

あいだ (ちくま学芸文庫)

あいだ (ちくま学芸文庫)

 

 

知識からの断絶

悪魔のごとき白人は、奴隷とした黒人をもともとの種族についてのあらゆる知識から切り離した。もともとの言語も宗教も文化も、すべての知識から断絶しさせられた黒人は、ついには、自らの真のアイデンティティについてのいかなる知識も持たない、この地上における唯一の種族となったのである。
マルコムX

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SNSは才能を浪費する-升田幸三『勝負』より

 刹那的な遊びごとの好きな人には、金銭ばかりじゃなしに、才能まで浪費する人が多い。
 その逆が、貯金をする人です。
 なにも銀行屋の宣伝をする気はないが、貯金できる人というのは忍耐力があるし、金銭以外のものも、蓄積する精神があります。(升田幸三『勝負』(中公文庫、2002年)p.158)

 かつて男の悪行を「飲む・打つ・買う」であらわした。語呂良く述語で揃えてあるが、具体的には「酒・賭博・女」を指す。いずれも束の間気晴らしをしたあとには何も残らない点で共通している。それを言うなら、娯楽とは得てしてそうしたものであろう。そんな反論が聞こえてきそうである。ただ、ここに挙がった3つは、脳が痺れるような酩酊感を味わえる点において中毒性が高い。だから、とりわけ「悪行」として雁首を揃えるのだろう。

 最近では、ここにSNSが入ろう。これは性質的に賭博とよく似ている。取っておきのネタを元手として投稿する。その内容いかんで「いいね」の配当が変わる。つまらなければ無配、もしくはちょぼちょぼ。面白ければ高配当、バズればそれは万馬券だ。見知らぬだれかさんの承認が自尊心をくすぐる。その味が忘れられず、ついつい元手=投稿の数が増え、人目を引くために内容も過激になっていく。昨今問題となっている「バイトテロ動画」などはその成れの果てと言えよう。

 SNSのレスポンスは早い。投稿してから快感を得られるまでの時間は瞬間的ですらある。したがって、のめり込むひとは長期的な計画に基づく努力がアホらしくなってくる。長い時間をかけてみんなに認めてもらうよりも、SNSでお手軽に承認欲求が満たされてしまうのだから。

 熊代享は「消費個人主義が徹底された社会では、アイデンティティはモノやコンテンツを消費し続けていればわりと簡単に補えてしまいます」と書く。SNSでは、自分の持ちネタ、すなわちコンテンツを売り、「いいね」を買う。それによって自尊心が着飾り、肥大してしまう。これは中毒になる。

 あるマンガ家が、面白いネタは作品で使えるからSNSになど投稿しないと書いていた。この言葉はよくよく噛みしめる必要があろう。

 

勝負 (中公文庫)

勝負 (中公文庫)

 
融解するオタク・サブカル・ヤンキー  ファスト風土適応論

融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論