ステファヌ・クルトワ『共産主義黒書』(ちくま学芸文庫、2016年)

共産主義黒書〈ソ連篇〉 (ちくま学芸文庫)

「不条理なるが故に、われ信ず」

 タイホ・ツイホウ・ショケイ。
共産主義ってのは、早い話が科学バカが書いた経済シナリオ、マルクス経済学の用語で言うところの〈下部構造〉なんだな。唯物史観は、ひとの歴史の発展には客観法則があるとする。従って共産主義への到達は偶然ではなく必然。だれがやっても共産主義到達へのプロセスは再現できる。再現性を内在させているがゆえに科学的、とこう来た。
 
同じ条件が揃えば必ず同じ現象が生じるはずの科学にとって、いちばんの不確定要素はなんでしょう。要するに、その要素があるせいで、うまくいくはずの実験が大失敗ってこと。わたしが中学生のとき、5.0グラムの砂糖に火をつける実験で、間違えて50グラムもの砂糖に火をつけて炎上しているグループがいた。どうしてそんな間違いが起こるか。そう、〈ひと〉が実験を行う限り、間違いが起こる。「ひとは失敗する生き物だからね」って『ガルパン』のミカも言ってた。
 
じゃあ、そんな不確定要素である〈ひと〉が間違いを起こさないようにするにはどうすればいいか。徹底的に訓練をほどこして、全員同じに手足を動かせるようにすればいい。だから共産国家はマスゲームが大好き。できないなら強制労働収容所かなんかに放り込み、労働のかたちを枠に嵌めてしまえばいい。
 
ものの考え方もそう。集団と異なった考えを抱くのはご法度。みんなが「ニュートーキョー」で一致しているところにひとりだけ「CoCo壱番屋」とか言い出したら、お昼の計画が破綻してしまうよね。破綻せずとも目的の達成に時間がかかってしまう。だから、これも教化、洗脳。それでダメなら銃殺刑。このくらい「シンプル・イズ・ベスト」じゃなきゃ、共産主義の名のもとに世界中で一億人以上ものひとを殺すことはできないって。
 
このような共産主義が独裁化に突き進むことこそ科学的必然。みなが平等であるはずなのに独裁のメカニズムを内包している時点で、頭の悪いわたしから言わせれば、共産主義は壮大な矛盾を抱えているように思うのだが、頭のいいひとはこの矛盾を〈アウフヘーベン〉してなんとか合理的に説明しようとする。レヴィ=ストロースは、矛盾を克服するための論理的モデルを「神話」と呼んだが、共産主義国家の独裁者に漏れなく神話がオマケとしてついてきて、おまけに肖像がやたらと美化されるのは、神話のちからで目先の矛盾を誤魔化すためなんだわね。7歳の金正恩が時速200キロのボートで外国人プロ選手に勝ったとか。神さまの言うこと、することに間違いはない。
 
こんなんだから共産主義は、理論的失敗を嫌い、そして失敗したときには自分の理論ではなく、そこに含まれる要素が悪いと考えたがる科学者や知識人の信奉を集める。共産主義者は結果の平等を謳うから貧乏人に人気がある。京都で共産主義が強いのはこれが理由。と同時に、学問の理論的潔癖性に取り憑かれた学者からの人気も高い。学者は、自分の理論の邪魔になるヤツは「逝ってよし」と案外大衆の〈死〉に対して「寛容」。そんなんだから左翼的知識人こそが全体主義、すなわち独裁の先鞭をつけると考えたのはフリードリヒ・ハイエク

 

共産主義黒書〈ソ連篇〉 (ちくま学芸文庫)

共産主義黒書〈ソ連篇〉 (ちくま学芸文庫)

 

 

宇野常寛『母性のディストピア』(集英社、2017年)

母性のディストピア

宇野常寛『母性のディストピア』を読み終わる。40万字というから、これ一冊で新書4~5冊分の分量にはなろう。昨年は例年に比べ読み終えた本の冊数が少なかった。いささか怠けすぎたかとも考えたが、つい最近もスタッズ・ターケル『「よい戦争」』みたいな分厚な著作を読んでいた。冊数の消化が遅々として進まないのはいたしかたない。
 
ところでこの本、ひとには薦めにくい。わたし個人は本書を奇書に分類していいとすら感じている。同じことが何度も何度も繰り返し記述される。言葉は悪いが、アルツハイマーかと思うくらいにひどく、うんざりしてくる。重複を削っていったら本書は半分のボリュームになろう。Amazonレビューでは10分の1まで削れると書くひともいる。10分の1にしたら新書1冊の分量にもならない。しかもそのくどさにはナード系、いわゆる嫌われオタクの意識が瑞々しいくらい発散されている。端的に言えば、オタクをこじらせている。
 
戦後日本は、良くも悪くもアメリカの支配下にあって繁栄を享受してきた。アメリカの影が目障りならば、いっときの苦労(経済的停滞・国防的重圧など)を背負い込む覚悟をし、何が何でも対米自立の道を模索しなければならなかった。しかし右派から左派まで多くの日本人が見て見ぬふりをした。核の傘に守られ、金儲けだけに勤しみ、消費を享受することで遊んでいられたからだ。これがかいつまんだ日本の戦後史である。
 
アメリカに政治的な部分を覆い尽くされた日本人の態度は大きくふたつに割れた。右派はアメリカ従属賛成のもと経済ごっこをした。左派はアメリカ従属反対のもと政治ごっこをした。アメリカによってどちらも政治的な決断からは遠ざけられている。だから口先番長みたいなことで自分のヘタレさを隠そうとした。右派は、この生活が守りたければアメリカに魂を売り渡すしかないんだよ、と〈偽悪〉を演じる。左派は、こんな世界は変えなきゃならん(でも変える気はないけどね)、と〈偽善〉を演じる。左派が反権力を打ち出していようと、せっかくアメリカの支配下で経済的繁栄を謳歌しているのにその果実をみすみす手放すバカはない。だから建前上、「こんな世界を変えなきゃならん」と〈偽善〉を演じる。しかし変えるべき世界であるところの「現実」すなわち政治的な部分はアメリカのコントロール下にあって、いかんとも動かしがたい。そこで「虚構」すなわち自由・平等・博愛・平和・正義・人権・反核・反原発・反差別・多様性・反捕鯨エトセトラにこじつけて、おあつらえ向きに〈偽悪〉を演じてくれている右派、すなわち「日本(と戦前)」を仮想敵に設定し、延々、反対の反対は賛成なのだみたいなトンチンカンな議論を長く続けてきた。長らくの習性が左派のレゾンデートルにもなってしまった。これが現在に至る左派政治家から左派言論人、左派文化人までの空疎なキャッチフレーズ遊びの正体である。
 
戦後、アメリカの支配によって「現実(すなわち政治)」にアプローチできない社会状況下とは裏腹に、近代という時代は国家を構成する国民、殊に男性に政治を通じて一人前の男になることを要請した。政治には近づけないのに政治に近づくことで一人前の男になれという日本社会に課された逆説。このギャップを解消するには、女性が「あなたは一人前の男よ」と承認してくれればいい。女性もまた近代化に伴い、自己決定する個人としての立ち居振る舞いを要請され、困惑していた。だから男を承認する、庇護するという母のごとき役割を進んで引き受けた。本書では、一人前の男の属性を「父性」と呼び、母として男性に承認を与える女性の属性を「母性」と呼ぶ。母性は、男性から必要とされる強度に応じてみずからの存在感を増す。存在感を増し、肥大した母性は、家をかたくなに守ろうとする前近代における自分の役割への回帰を希求するようになる。家族の成員に自立を認めず、すべてを家のなかに取り込み、おのれの目が届く範囲にとどめ置こうとするのだ。家は「母胎」のメタファーでもある。結果、日本の男性は、一人前の男になろうとして女性に母としての承認を求めるほど、肥大した母性の胎内に取り込まれ、父性の確立を断念せざるを得なくなる。母性による管理社会(=ディストピア)、これが本書のタイトル「母性のディストピア」が意味するところだ。未成熟な男性の依存を存立基盤として肥大する母性と、結果確立し得ない父性が意味するところの女性・男性は、いよいよ「現実(すなわち政治)」への関心を喪い、その体裁の悪さを隠すために右派的〈偽悪〉と左派的〈偽善〉のパフォーマンスを強めていく。こうした時代精神のありようは戦後アニメの表現にも敏感に反映された。それが特に顕著だったのが宮崎・富野・押井の三者である。彼らは、母性の重力から逃れんとしてもがくが、それぞれの理由において桎梏を脱することが叶わなかった。彼らの作品を検証しつつ、母性のディストピアのありようと彼らの失敗へと至る闘争のいきさつを確認する。果たして、母性のディストピアからの離脱を可能とする隘路を突破する者はあり得るのか。
 
以上が本書の趣旨である。
 
以上の梗概というか、あらましを読んでもらっても、さまざまな批判点が見えてこよう。富国強兵のかけ声のもと、近代化の道を突き進んだ日本が近代的自己決定性を「父」すなわち男性に比定したのはその通りであろう。だが戦後、政治的にアプローチできない男性が前近代への回帰を希求する女性の承認をもって「父」となるというプロセスだけをもって、時代のありようを概括的なレベルで規定するのはあまりに大風呂敷と言える。政治的自立性をもてないから「甘え(=右派)」や「小狡さ(=左派)」といった偽悪・偽善が巷間にまかり通るという江藤淳を引いた見方は確かにあるが、これはむしろ土居健郎『甘えの構造』や山本七平『「空気」の研究』、中根千枝『タテ社会の人間関係』、阿部謹也『「世間」とは何か』などの日本人論を参照したほうが説明がつきやすい。原因は近代社会の要請にあるのではなく、むしろ日本人のジーンとミームのなかに潜んでいるのだ。
 
また、もっぱら男性の立場からのみ、公と私の関係性を考察する本書であるが、それに比して女性は男性の求めに応じてディストピアを発揮する極めて受動的な存在でしか描かれていない。これもまた戦前の富国強兵策に端を発した専業主婦の拡大に見られる社会構造の変化とそれに伴う女性に要請された役割の変遷を視野におさめておかないと片手落ちになるのではないか。まして近代までならあり得た母性管理への遡行という思考が20世紀後半のアニメーション分析の切り口になり得るのだろうか。こう言っては申し訳ないが、宮崎・富野・押井の三氏は、男ぶりも良くないし、女性との関係においていわゆるリア充ではなく、オタク的コンプレックスを大いにこじらせた人びとではないか。そうした監督たちの作品が女性を好意的に扱うわけはないし、女性特有の対人関係におけるマウンティングをディストピアと見なしている可能性は大いにある。言い換えるなら、社会に母性のディストピアが充満しているから彼らの作品がそれを反映したのではなく、彼らが作ったから母性のディストピアみたいな作品ができあがったのではないか。限りない憧れの対象である一方、常に自分のコンプレックスを刺激してくる愛憎半ばする存在が三者にとっての女性ではないのか(わたしはこれに宇野氏自身も含まれると考えている)。事実『ガンダム』などは、未成熟な少女は生き延びる可能性が高いが、成熟した女性はたいてい死ぬ。後期の作品に至っては、女性不信が増したせいか少女も含めた女性キャラクターが全員死んでしまう作品もある。すぐに染まるクラリスのような少女に対しては寛容だが、出し抜く峰不二子のような女性には眼を光らすというのが、わたしなどは三氏の基本的なスタンスに思えてしようがないのだが。ある種のミソジニーとも言える。しかもこの三氏はまごうことなき左派系文化人である。「母性」に戦前の軍国主義や国体思想、つまり全体主義や統制主義のメタファーを読み取っている可能性すらある。空を飛ぼうとする男性をディストピアの重力に引き込もうとする構図は、時代のありようというよりもはや彼らの政治姿勢ともいえる。
 
わたしは戦後消去されたものは、政治的アプローチを不可能にされた父性と、任意の集団の帰属意識を下支えする意味での母性と、両者であると考えている。宇野氏のなかには、父性を決定的外交性、母性を排除的内向性とする単純な色分けが透けて見える。しかし父性は現実と切り結ぶ力であると同時にみずからの出自である母性を防衛するちからにも変わり身する。同じことは母性にも言える。母性は我が子を守るために徹底的な排除を指向する一方で、我が子が現実の世界へ飛び出していくための自信を付与する基盤ともなり得る。往時に母親から承認を受けなかった子供が大人になってから極めて自己評価が低く、対人関係、こと異性との付き合いに支障をきたすことはよく知られている事実だ。対人関係を苦手とするオタクには往々にしてこのケースが多い。
 
美味しんぼ』にこんなエピソードがあった。海外で活躍していた料理人が自分の根っこを見失いかけて自信をなくす。そんな彼に山岡が握り飯(=母性)を食べさせたら、自分のルーツを自覚し、また海外で頑張れるちから(=父性)を取り戻す。宇野氏の主張は、簡単に言えば、この「握り飯」と「ちから」のつながりを母性による支配関係だと言っている。母性の本来像とは、子供に従属を強いるだけのものではない。家の外に踏み出しても自分は生きていけるという確信と戻るべき場所としての世界のゼロ座標を授けてくれるものもまた母性なのである。そして父性とは、母性の確信に導かれ家の外に出たうえでなお自律的・自立的に生きていけるちからを指す。母性は父性の背中を押すことで外の世界へ送り出し、父性はみずからの選択と決断による成果物にもとづいて母性の世界内における存続を一層揺るぎなきものにするという相補的循環構造。
 
今の日本人は母性が剥奪されているから内に引きこもる。内に引きこもるから父性が育たない。しかし社会は自己決定論に基づいた父性を要請する。そこで父性の欠如を「身近な人間の支配」や「偽の伝統」によって代理補償しようとする。これが今の日本社会に顕著に見られる傾向だ。母性の支配というよりも、歪んだ父性の補償行為だけが至るところを満たしている。近年子供をペット化する毒親がいて、母性に一部歪んだ印象が貼りついているが、あれを母性による排除的支配と見るか、父性による統制的支配と見るかはよくよく検討しなければならないとわたしは考えている。なんとなれば、父性が男性の特権的所有物でもなければ、母性が女性の特権的所有物でもないからだ。ひとりの人間には父性と母性のいずれもが配賦されている。宇野氏は、父性は男性のもの、母性は女性のものと単純に見なしていないか、その点も気になった。
 
戦後の日本社会を覆う母性のディストピアという主題を補強するために宮崎・富野・押井三氏の作品名を挙げるが、では『巨人の星』はどうなのか、『あしたのジョー』はどうなのか、これらの人気作品に母性のディストピアは内在したのか。前述したが、宮崎・富野・押井の作品に夢中になる人びと(=オタク=宇野氏)だけが母性のディストピアに苦しめられていたのではないか。オタクの尺度をもってのみ社会を裁断して語るのでは、社会論としてはあまりに雑と言える。瑣末なことだが個人的にどうしても言っておきたいのは山田尚子監督『聲の形』は日常系作品ではない。聾唖の少女がイジメに遭い、率先してイジメを行った少年が意識不明の重体になる日常系など聞いたこともない。宇野氏の作品の受け止め方に大いにバイアスを感じる。そこもまた本書の論旨に瑕を与える原因となっている。
 
母性のディストピアという本書の概念が砂上の楼閣だったと措定したとき、本質的な問題を論じ得ず「虚構」に退歩していった左派と母性のディストピアというやや的外れな概念をもとに社会を評論する宇野氏の振る舞いは同じものになってしまう。外に飛び出していけるための母性の力を育むどころか、母性を目の敵にして消去した社会には、戻るべき場所をなくしたホームレスだけが残されるように感じる。これが現状、日本の左派が置かれている精神風景でもあろう。仮想敵として仮構したものすべてが雲散霧消した挙句、ついには「安倍晋三」という固有名詞にすべての罪をおっかぶせなければならないところまでその品位が後退していった左派のことである。アメリカが与えてくれた戦後価値が気に食わんとすべての身ぐるみを剥いでいったら素寒貧になりましたというオチが、宮崎・富野・押井左派系三氏に共通する作品の流れだとわたしは見なしている。さりとて本来的な母性の再興が軍国主義の復活や礼賛くらいの浅薄な歴史理解しかなければ、永久に円環の理のなかをグルグルしているだけなのだよ、ほむらちゃん。
 
まだまだ本書には反論があるが、長くなりすぎたのでひとまずこれで終える。本書を読み、戦後サブカルが理解できたと思っている若者が少なからずいることにやや暗澹とする。

 

母性のディストピア

母性のディストピア

 

 

米澤穂信『インシテミル』(文春文庫、2010年)

インシテミル (文春文庫)

モニターの一人は、電話で誘いを受けた。ちょうど、金が欲しいところだった。細かい条件など、検討どころか、聞くことさえもしなかった。気にしたのは、いつ始まるのか。いつ終わるのか。入金はいつなのか。その人物は、何でもするつもりで応募した。

(原文は2014年執筆)
7・12・112000。
物語を読み進めるのに必要な世界観なりルールなりが、のっけからこまごまと説明される作品がたまにある。「この館には部屋が全部で20室あり、夜の12時から朝の6時までは玄関に鍵がかけられるので完全な密室。部屋から食堂へ行くには、必ずホールを通らなければならず……うんたらかんたら」というようなやつ。
 
アイディアが極度に先行すると、こんなことになるのだろう。だから『DEATH NOTE』も最初の数話で読むのをやめてしまった(いずれ再挑戦しようとは思っているが)。テレビゲームでも見ているかのよう。「設定」という本来読者に意識させてはならないものが前景化されてしまい、物語に入り込めない。
 
残念ながら本書もその轍を踏んでしまっている。ミステリー作家の米澤先生には大変失礼ながら、もうここまでの話なら、ミステリーではなくいっそホラーにしてしまってもいいように感じた。クローズド・サークルであることは分かるが、時期的に映画『ソウ』の影響もあったのかと、わたしの頭のなかをノイズが飛び交う。
 

インシテミル (文春文庫)

インシテミル (文春文庫)

 

 

中沢新一『アースダイバー』(講談社、2005年)

アースダイバー

「頭の中に描いた世界を現実化するのが、一神教のスマートなやり方だとすると、からだごと宇宙の底に潜っていき、そこでつかんだなにかとても大切なものを材料にして、粘土をこねるようにしてこの世界をつくるという、かっこうの悪いやり方を選んだのが、私たちの世界だった」

(原文は2014年に執筆)
ツラナル・カサナル・ツナガル。
本書を非科学的なトンデモ本だとバッサリ切り捨てる、それに追随して「いいね!」「参考になりました「はい」」を押す。そのようなひとたちに言いたい。「本書はあくまでも『アースダイバー』であって、たとえば『縄文海進と東京の成り立ちにおける地質学的考察』ではないんだよ」と言いたい。
 
現代人が何世紀にもわたり、縄文時代に形成された地勢とシャーマニズム的世界観に忠実かつ厳密な街づくりをしていたら、それはそれでどえらいことだ。まさに『帝都物語』、加藤保憲、土御門の世界である。
 
そういうことではなくて。
 
著者は、科学的実証としてではなく、もっと漠然としたもの、ゲニウス・ロキ(地霊)のようなものが、わたしたちの深層意識や身体に流れる血に囁きかけてはこないか、そういうことを言っている。彼岸と、神話と、阿頼耶識な話。
 
海面が今よりずっと高かった時代、それでもなお海から顔をのぞかせる陸地の部分を〈洪積層〉という。そこにひとが住み、共同墓地が作られる。時代がくだるにつれ、それら共同墓地が寺社仏閣へと変わっていく。だから寺社仏閣やパワースポットの多くがいまなお東京の台地のうえにあるらしい。
 
高いところと低いところがあったとき、見晴らしのいい場所に住みたいと思うのは人情。だからだれもが、かつての洪積層、つまり台地のうえに位置する土地を買い求める。市場の論理にしたがった結果、そこの土地の価格は高騰する。土地の価格が高騰すれば、集まってくるのはお金を持っている企業や資産家たち。土地は必然的に「高級・財産」のイメージをまとうことになる。
 
寺社仏閣を参拝すると金運が高まるという民間伝承の背後に、かような民俗学的な知見と市場動向がもたらすイメージの接合が、あるいはあったかも知らないと考えてみることは、それほど目くじらを立てるようなことなのだろうか。繰り返すが、本書は学術書ではない。
 
一方で。
 
洪積層よりも長いあいだ水に浸かっていた場所を〈沖積層〉と呼ぶ。23区の東部全域、今の下町と呼ばれている区域が沖積層と考えて差し支えない。かつてそこが低湿地だったからといって、今に至るもジメジメ、暗いままであるわけもない。交通の便が良ければ開発も進むし、フラグシップとなる企業や商業施設があらわれれば、それが求心力になって町は活性化し、様変わりする。
 
そんなことは魚屋や八百屋のお父ちゃん、お母ちゃんだって分かっているし、もちろん中沢氏だって百も承知だ。そのうえで、低湿地のジメジメした空気とひとの隠微で淫靡な情念の類似性に想像力の翼を羽ばたかせているのだ。
 
そうした蓋然性とイマジネーションを「学術」ではない誌面で語っているのに、一部の人びとがいきり立つのはなぜなんだろうか。そういうひとたちにとって、世に出回るすべての本は科学的に裏付けられた事実のみを記したものでなければならないのだろうか。あるいは、著者が学者や知識人を名乗る以上は、ロマン的な心情と袂を分かったうえで、諸事万端を語らねばならないのだろうか。
 
そうした人びとの本書における言い分の一例。
 
「新宿の伊勢丹は高地にあるが、渋谷の西武は低地にある。したがって高級なものが高い場所にあるという著者の主張は妥当性を欠く」などと本書を断ずるのは、あまりに「科学崇拝」の度が過ぎて、かえって貧相さが目に余る。渋谷の高地には東急があるじゃないかと、当方も屁理屈を言ってしまいたくなるほどの貧相さだ。ヒトラーが酒を十把一絡げに「毒水」だと非難したことに通ずる精神的・文化的な貧しさだ。
 
松岡正剛『ルナティクス』、養老孟司バカの壁』、三木武夫『胎児の世界』、藤原正彦国家の品格』なども、とかく非科学的・非論理的だというだけで叩かれている。しかしいずれの著者も潤沢な詩情を持ち合わせているからこそ、そこに論理の飛躍もあろうというもの。目先の辻褄合わせと科学的得心だけにとらわれ、本の趣旨や著者の心情に思いを致さない批判は滑稽の極みであろう。
 
それと最近は批判者がトンデモ本という言葉を安易に使いすぎる。本当のトンデモ本とは、自分が弥勒菩薩の生まれ変わりで前世ではラブファイアー号に乗って悪の魔王と戦ってたとか、パソコンのフロッピードライブに鉢植えのポラロイド写真を挿入したらパソコンが植物の言葉を理解したとか、日経株価平均の下落時間と重力加速度には相関関係があるとか、そういうレベルの本を指す。ちなみに、どれも実在する本である。

 

アースダイバー

アースダイバー

 

 

齋藤孝『暗記力』(NTT出版、2010年)

暗記力

たとえばゆとり教育全盛のときなどには、暗記は良くないみたいに何回も言われてきました。暗記は些末な知識にすぎないだとかサンザンに言われてきたけれど、社会の中枢を担うかたがたからしてみたら、「暗記しなくて社会に出てきたのを面倒見ているのは俺たちなんだ。面倒を見てみろよ」と言いたくなるのではないか、と、ずっと疑問に思ってきていたのです。暗記力がなければ、そもそも仕事を覚えられないのですから。

(原文は2014年執筆)
オボエル・メイジル・ソランジル。
料理でいえば、知識は材料。それが頭という冷蔵庫に入っていなければ、逆立ちしたってその材料を必要とする料理は作れない。牛肉がない状態でビーフカレーを作ろうとするようなもの。というか、そもそもビーフカレーの存在すら知らないようなもの。
 
大事なのは知識の量ではなく、それを使える応用力であると口にする年輩者がいる。ひとは歳を取ると暗記するちからは減退するが、それと引き換えに既有の知識をつなげる能力が向上することは科学的に証明されている。そのことに無自覚なまま、自身の体感が命ずるまま、若いひとに暗記や知識の不要を説くとしたら無責任の極み。
 
だからといって、何でもかんでも闇雲に暗記すればいいというものでもない。頭のリソースには限度がある。暗記するべき最低限のものを取捨選択しておくのが経験者としての「大人」がすること。それ以上に覚えたいことがあるのなら、それは若いひとの興味・関心がおもむくに任せればいい。

 

暗記力

暗記力

 

 

藤井司『死体入門』(メディアファクトリー新書、2011年)

死体入門 (メディアファクトリー新書)

 

死体入門 (メディアファクトリー新書)

死体入門 (メディアファクトリー新書)

 

 

パトリク・オウジェドニーク『エウロペアナ』(白水社、2014年)他

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)

柳田國男は「自分の野望を打ち明けるならば、現代生活のあらわれては消える日々の事実から歴史を描きたい(意訳)」と書いた。おそらく、このあたりの思想にわたし自身嵌入し、サブカルから人生一般を考察し得る思想を組み立てられないかと妄想するようになったのだと思う。
 
これは、たとえば、食事の食べ方や味付けから歴史のありようを探ろうとする文化史のようなものを指すのではなく、さらに些末な事象を積みあげることで歴史はその正体をあらわすのではないか、という考え方である。
 
これまでに読んだ本で感銘を受けたのは、フレデリック・ルイス・アレンが書いた『オンリー・イエスタデイ』とパトリク・オウジェドニークが書いた『エウロペアナ』だ。
 
今『イエスタデイ』は手元になく、こちらは記憶で書く。1920年代のアメリカは空前の大量消費社会を迎える。不動産投資ブームが起こり、すべての家庭にラジオが音楽を届ける。ゴルフ人気が過熱し、女性のスカート丈が短くなり、セックスと犯罪とスポーツを記事にするタブロイド紙が飛ぶように売れる。しかしこうしたこの世の春は1929年の世界恐慌によって終止符を打たれる。
 
「歴史の勉強」では、1929年の世界恐慌をほんの一行触れるに過ぎない。だが上記のような大衆生活のありようを並べていくことで、これに類似した日本の1980年代のバブルとその後に続く崩壊はあるいは予測できたかも知れないのだ。
 
エウロペアナ』は20世紀という「時代」を同様の手法によって示そうとした。のっけからこんな文章が読者のまえにあらわれる。「一九四四年、ノルマンディーで命を落としたアメリカ兵は体格のよい男たちで、平均身長は一七三センチだった。ある者のつま先に別の者の頭を置くといった具合に戦死者を一人ずつ並べていくと、全体で三八キロの長さになるという」これを最初から戦死者・二二〇〇〇人(=三八キロ÷一七三センチ)と書いてしまうと、歴史から人間の匂いが消え、単なる知識になってしまう。
 
第二次大戦中のイギリスの武器工場では一〇〇万人の女性が働き、一日平均一八名が視力を失い、ガス中毒で死んだ者もいた、という記述は読むものの想像力を大いに刺激する。
 
インターネットでは男性の精子が売買される。精子には提供した男性のプロフィールと音声メッセージが付属しており、女性はそれを確認し、間違いないと思ったら買う。ある日、音声メッセージを聞いた女性から割り引きの問い合わせが会社にあった。理由は、提供者がどもりだったからだ。二〇〇〇年代、アメリカにはまだ優生学が生きている。あな恐ろし。
 
スイスの歴史家・ブルクハルトもまた弁神論や救済史がもたらす「大きな物語」ではなく、受苦的人間がつむぎだす「小さな物語」として歴史を組み立てようとした。そういう視点がわたしもほしい。

 

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)

 
オンリー・イエスタデイ―1920年代・アメリカ (ちくま文庫)

オンリー・イエスタデイ―1920年代・アメリカ (ちくま文庫)